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〒721ー0957 広島県福山市箕島町474ー3

縁起

〇文書から・・・
この箕島という地について古書には、
「島に水多し、よって水の島といい、転じて三の島。
 又は蓑島、箕島などと書す。神功皇后
西幸の途、御船を云々‥‥」。

古歌には、
「あらわれて 幾世るなん 海神の 底つ宝の かくれ蓑島」とある。
(あらわれて いくよふるなん わだつみの そこつたからの かくれみのしま)

また「箕」という文字は、歓喜天(聖天さま)の衆生済度のお誓いの象徴であるシンボル(三摩耶形)の「箕(み/き)」と同じ。

この「箕島」という地は 神縁の浅からざる場所であるようです。

 この縁あって現住職は、毎日早朝に歓喜天の浴油秘法を修行しています。



○開山由来・・・
このお寺の開山の所以(ゆえん)を伝え聞くところには

石鎚山は極楽寺、中興阿闍梨 宥心上人 が修法中のところ、

「備後国 箕島の地は、大同年間、弘法大師 諸国遍歴の(みぎり)に御留錫(ごりゅうしゃく)なされ、種々の秘法を修されし御遺跡なり。今に大師が 日々に影向 垂れ給う 真言密教 相応の霊処なり」と御感得される。

弘元寺開山 宥榮の師宥心上人は、
「法は人によって興廃するもの。其の人に・・・。」と言い、
弟子の 宥榮法師 に対し、
「石鎚を下山し、弘法大師を本尊として、大師の秘法を継承する庵を結べよ。(よろこ)ぶべし、(とうと)ぶべし」と告げられました。

 吉祥山 弘元寺はこれにより開かれました。



○宥榮法師、寺号の由来について・・・
開山の法師は初め、臨済禅の師僧に従い得度を受けますが、深く道の秘奥を欣求するの
まず、遂に石鎚山の宥心阿闍梨に師事する。
宥榮法師は験力に秀で、地相家相方位に通じられしも、師の宥心上人は弟子の験力の使用については極力おさえられたといいます。宥榮法師は在俗の石鎚修験者から、高齢ながらにして真言密教の行を修め、阿闍梨の位を受けました。

機が熟してか、許されて、
弘法大師を本尊として、大師の秘法を継承する庵を結べよ。」という言葉の下、
大正初期、先ず鎮守として八大竜王を勧請(かんじょう)する。

そして、いよいよ御本尊をと
当時、御室仁和寺の総長であった王至森寺の瀬川僧正の高配を得て、
仁和寺より弘法大師御像の奉迎に至り、尊像を修復、安置して「御室 日切大師教会」として始まる。

続いて、箕島の一円に、
本四国の各本堂、大師堂のお砂を埋め、箕島新四国八十八ヶ所を建立。

幾ばくかの後、師の宥心上人は自分の別名である「弘元坊」をそのまま命名くださり、「吉祥山 日切大師 弘元寺」と寺名が定まる。




○住職について
・開山 「宥榮法師」。師は石鎚山極楽寺の宥心上人。
・第二代住職 「宥善大僧正」。師は宥心上人。
・第三代住職 「正和」
・第四代住職 「泰教」(現住職)

 
      初代 宥榮       
 
     二代 宥善
  
     三代 正和
   
     四代 泰教


○寺歴

・1917 大正6年9月14日 八大竜王勧請
   …石鎚大権現は遙か以前に此の地に勧請されています。
・1924 大正13年旧8月20日 本尊(弘法大師 尊像)勧請
・1926 大正15年8月20日 本堂移転
・1927 昭和2年旧8月20日 新四国霊場開眼
・1977 昭和52年旧8月20日 水子地蔵建立開眼
・2003 平成15年9月14日 本堂落慶
   …記念法要にて約70年ぶりの秘仏ご本尊のご開帳

 

 弘元寺のご本尊さま        ずいぐぼさつ            ふどうみょうおう
  
 しょうてん(かんぎてん)     だいこくてん           
   



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日切大師 弘元寺

〒721-0957
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