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 「それでも私は生きている」 
 

 「それでも私は生きている」

 今年は弘元寺のご本尊、弘法大師さまが仁和寺より勧請されて99 周年。それをお祝いする入佛記念法要で柴燈護摩、火渡り修行を始めて19 年。今のお堂の落慶から20 年の節目でもありました。 このように年数を文字にしてみると時間が経ったことを改めて実感します。
 皆さま、「20 年前の今日」は何をしていましたか? ちなみに20 年前は金曜日。 きっと自分の立場も、周りにいる人も変化をしていて、今とまったく同じだという人はいないでしょう。 右の写真、火の揺らぎでも一時として同じものはありません。自然の中に生きるとはそういった瞬間、一瞬の絶え間ない生々しい「生」との出合いであると感じます。

 多くの方が鬼籍に入り、思い返せば懐かしいと思う感情が湧き起こってきます。あの方は今、浄土(清浄国土)、霊界(霊魂世界)でどのようにお過ごしでしょうか。あちらの世界でも私たちと同じように時間は流れていて、生命は形を変えて生き続けています。死はすべてが無に帰す終わりではなく、ひとつの大きな変化の節目に当たるのです。一方で現代科学の発展により、その魂の正体が質量、エントロピー、シナプスなどの概念を借りて説明されようとしているのも興味深く、更にその体験イメージの一つが帝釈天の網(因陀羅網。インドラ・ネット)に似ているのも面白いものです。

 帝釈天とはもともとインドのヴェーダ神話に説かれるインドラ神、激しい雷の神、戦いの神ですが、ある時に仏教に帰依をしてからは仏教を守護する天となる。須弥山という、世界の中心にある高い山の頂、忉利天という場所の主であり、喜見城(善見城)に住む。その世界は天人らが遊楽する楽園であり、宮殿には美しい宝珠の珠が細やかな編み目に無数に広がり、それが常に互いに互いを映し出し、輝かせ合っている。
これは華厳経の説く世界をそのままイメージさせるものであり、すべての事物が際限なく関わりあっていて、また一つの微塵の中に全世界を映し出し、一瞬の中に永遠を包み込んでいる、一即一切、一切即一、事事無礙法界のすがたを現しています。つまり現象するすべてのものが さまたげられることなく、お互いの本質的な美しさから何から何までも全てを映し出している世界です。

 私は仏教、特に弘法大師の密教世界はこれからの混迷の世、AI、先端科学の世界を救い導くものになると確信しています。お大師さまは厳しい山林修行の中で一切の煩悩が無くなり、再び輪廻することの無い境地、無余涅槃を体験されても、まだ自分は息をしてこの世(仏の世界)に生きている、と気付かれた。だから密教を求めたのでは無いかと師より聞き習ったことがあります。
普通の仏教では何の為に生きているのか、その価値を見いだせないことがあります。真言の教えは、言葉を超えた生命の神秘にただ生きることの実践方法の相伝。得る手段しか持たない世間の学問のそれではたどり着けないのです。仏教の基礎実践、自己の表面と奥に内在する執着を手放す実践と体験による智慧によって私の世界を変革する時代です。
知識や思想だけで「苦(煩悩)」や「戦争」の連続性から解放されないことに多くの人が気付き始めています。仕組み、法律、制度、多の面を変えるだけではなく、それぞれが己の個を、内面意識を変えることを始めるべきです。
弘法大師は人間の認識に注視され、そこから覚智を得る六大無礙などの教えを説かれました。

令和五年十一月二十一日

3日(日)「毘沙門天」朝6時~
     「水子供養・護摩」10時~
9日(土)「佛名会」9時~
10日(日)「しめ縄作り」9時~
21日(火)「大師御縁日 護摩」10時、20時

大晦日「水行」22時 「大黒天」23時「神祇法楽」
元旦「初詣祈祷」9時半~15時 30分毎に祈祷


   
   令和5年11月21日 南無大師遍照金剛ありがとうございます。     


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