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 自分にあった信仰生活を送りましょう
 
 お大師さまの思想をよく理解した者の在りようは、
日常生活より「自分が輝き」「相手を輝かす」姿勢を持ち生きることです。
またその生き方の様相はマンダラのように色々様々で良くて、答えは一つではありません。

 ・そういった生き方をすると味方が増えます。
 ・心に余裕のある人が周りに増えます。

 こう聞くと、そうだ!と納得する人もいれば、でもそんなのは理想論であって現実は違うと思う人も多いもの。そんな肌感覚も知っています。他人から優しくしてもらった経験の無い人は相手にも優しくできないとか、親や他人から愛された経験の無い人は他人を愛せないとか、
「経験したことのないもの、自分が持っていないものを誰かに与えるなど到底無理なことだ」というのが世間の一般常識であろうと思います。
一方で稀に、親から酷い目に遭い育っても自分を産んでくれた親には変わりないからとか、すさまじい智慧と心の働き(言動)をするような御仁、魂の人に出会うこともある。 そういった人は暗い影や傷よりも、自分の中にもっと大事なものを持っていたり、自覚していることが多く、それは前世からの経験や、功徳積みの多少、各々の生まれ来たミッションの見識の違いが見え隠れもします。
またそういった人間の意識の違いを一つ挙げれば、「他人のせいにする人」と「他人のせいにしない人」の有無が見られます。 ドキッとした人は、何故、自分が他人と比べたりするのか、とか、相手を変えることは強く望むくせに、なぜ自分を変えようとする意識は強く持たないのか、などの「自分の心の癖」と「意識の色形」を気にしてあげることから始めるべきでしょう。

 またこれには上手にやるポイントがある。これが大事で、「信頼できる導き手に出会うこと」なんです。世間で言う、良い先生や、インストラクターを選ぶのと一緒。マンダラを見上げるとさまざまな仏様がいらっしゃいます。自分にあった仏さまに出会うことは重要です。これが密教では「結縁潅頂」というものになります。

 一方で師匠と弟子の関係について少し考えてみましょう。まずよく誤解されているのは、弟子が師匠を選べると思われていること。これは間違いです。
真実は、師匠が弟子を選ぶのです。密教になると、この構造は顕著になります。手を上げるのは自由ですが、力や能力に従って免許を与えるのと一緒ですし、またタイミングというものもあります。
 こういった話になったので、良い機会ですから現状行われている弘元寺の出家得度についても少し説明しておきたいと思います。弘元寺は密教寺院です。ただ基礎の仏教を飛び越えて誰もが密教を出来るものでは無いので、得度については先ほど述べた師匠と弟子の構造とは少し違う様相になっています。
というのは現代日本は葬儀の場で死者の誰もが出家の縁を得るように、理想は誰もが生きている間に出家の縁を得られるよう、お寺の門戸は広くしていたいと思っています。(現状、そこまでの力が今のお寺には無いので実現できていませんが・・・)
 例えば、タイ国では身内に死者が出れば家の子供が出家して一ヶ月ほどお寺で過ごしたり、成人男性は人生一度は短期出家する習慣があり、会社に「出家休暇」の制度があるように、日本でも多くの方が生きている間に出家生活の縁を結べるようになりたいと思っています。

 怒り散らしたり、不平不満多くして生きるより、人間は慈悲の心をもって他者に向き合えたり、許せたり、心に余裕をもって生きられる方が良いに決まっています。そういった人間の基礎を出家修行生活で身に付けられれば何と幸いなことかと思っています。

 ただし、出家者には守るべき生活態度があるわけで、それが守れないならば一日や一週間と期間を決めて、その期間はお寺の生活をし、決めた期間を過ぎれば、また信仰の深い在家信者という形に戻るのが必要なルールに思います。
・・・ちょっとイメージが付きにくいかもしれませんが、、、
真理を求めて求道者としての志を持ち、仏道修行の名前(戒名)をいただくことは、体験者の云く、生まれ変わり(直し)を得るような感覚のようです。

 なので弘元寺では「(見習いの)得度者」と「(道と志が固まった)行者さん」という違いで今は色分けをしています。間違わないでいただきたいのは、ここに偉いとか、凄い、凄くないは別段無いことです。見え方としてそう捉える人もいるでしょうが、3才の幼子の方が大人よりも立派であることがあるように、安易に立場や境遇で判断するべきではありません。お互いの心の内に皆大日如来さまはいらっしゃいますから、互いに尊敬の心を念ずるのです。

 そして清らかな信心をもって、手を合わせている人間というのは美しい。それはまごうこと無いものだと思います。先日、泰教さんですよね?と若いお坊さんから声を掛けられました。私が誰か分からずにいると、こんな話からしてくれました。ある時、お仏壇に手を合わせている姿を拝見して、そのお姿が忘れられないでいて、今日お堂で手を合わせている姿を見て、きっと泰教さんだと思ったんです、と。この上も無い褒め言葉に思いました。

 祈る姿が目と心に焼き付き、その姿・雰囲気で私を覚えてくださっているなんて光栄なことです・・・。

 いつも「祈り・思い・行動(言葉・願い・生きる姿勢)」の三拍子が大切だと私は思います。本格的な修行には有形に囚われない瞑想、三昧をするのですけれど。まず日々を生きる上での心の働き、動機が濁っていないこと。美しく輝いてあり(生き)ましょう。これを意識し、「手を合わす、祈る、写経する、五体投地の礼拝をする、真言を誦える」等、自分に相応したステージのお祈り生活をしましょう。

            令和四年六月二十一日

《7月 修行案内(一部)詳しくはホームページに》

2日(土)「柴燈護摩・火渡り修行」19時
3日(日)「滝修行」 5時お寺出発
「水子供養・地蔵護摩」 10時
17日(日)「石鎚山入峯修行」 申込は別紙にて
21日(火)「お大師さま御縁日。お護摩。」
  ①10時 ②20時 どちらかにお詣りください
 写経奉納。祈願護摩木。先祖供養塔婆。
23日(土)「瓜封じ(胡瓜加持)」 申込は別紙にて

 
   令和4年6月21日 南無大師遍照金剛ありがとうございます。     


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