過去の法話へ
 人生、無駄なもの・無価値なものなど無い
 
 こんなこたぁ初めてじゃなぁ。お盆に降った長い雨。
 温暖化による気候変動なのか。何かの思し召しか。

 私は、あるお婆様からこのように伺いました。

「泰教さま、お盆にね、長雨が降ったでしょう。
私長く生きてきましたが、
お盆にこんな雨が降るなんて経験したことがないですよ。
この雨の意味はなんだと思われますか?
……私はねぇ、これが涙の雨に思えるのです。
みんなコロナ、コロナって…仕方が無いけれど大事なことを忘れていないでしょうかねぇ。
もう2年も私たちは忘れられている。
戦争で亡くなった方々をはじめ、先祖さま。
みんなお墓参りにも行けず、供養や、思い返すこともせず。
海に遊びに行ったり、山に遊びに行ったりはするのにね。
今があるのは戦争中に命を懸けてくださった方々、無念にも亡くなられた方々がいらっしゃるのですよ。私にはその方々の悲しい気持ち、
寂しい思い。
その涙の、長雨にしか思えません。」

自然の声を聴く。 じぶんの内側にある声。
魂の声を聴く。 未来にながれる声。

どれも、自分の好きな物(だけ)を見る目や、
世間の情報を聞く耳では聞こえないものです。

「必要、不要」と自分の欲望に従って何でも考え、物事を見聞きしていると、本当に大切なことに気づけないものです。これは残念です。
対して、すべてを平等に観察する「座禅瞑想」や、
ひとつの物事に一心に集中する「瑜伽(ゆが)修行」。
この瑜伽というのはヨガyogaの音写語になり、精神を統一して「結びつけること」を意味しています。

 私の経験談ですが、祈りや心の集中はお坊さんになってから身に付けたものではなく、その基礎は幼少期から習っていた器械体操、また高校三年間県大会で優勝し続けられたフェンシング。つまりスポーツにあると思っています。広島出身、元プロ陸上選手の為末大さんは先日の中国新聞記事「オピニオン」でこのようなことを書かれていました。
 私はレース前にけがをして追い込まれている時に、結局人間は今ここを生きるしかないと直感した。未来を心配しても来ておらず、過去を悔やんでも去っている。 あるのは今の自分の身体と動きだけだと感じた。「心の世界」の学びの面白いところ段階的ではないところだ。ある瞬間にひらめくように悟れば、もうそうとしか感じられなくなる。 どのアスリートも、少なからずこのような心の世界に触れている。……

 私はここまで高尚では無いが、10才の時、同じようなことを体操の試合会場で思ったことがある。それ以降、「心と時間の流れ(と結果)」は自分次第であるとずっと思っている。一瞬一瞬が今(未来)を作っているし、この一瞬は過去にも未来にも広がる。
 こういった経験に、更に真言密教の修行体験が上乗せされて、いま一瞬を観察する力になっている。
 滝修行も山修行も同じような観察をする。一瞬の広がり、一瞬を観る故の、つながりあい(縁起)を知ることは物事の本質を見極めていく。粗雑な今一瞬のここを見ているのと洗練された今一瞬のここを観る力とでは、そのつながりあい、また縁起を知る体験・感覚にも大きな差が出てくる。そして密教・修験道においては五大(地水火風空)、六大(五大+識)を心得ることができれば仏の世界からこの世を見渡す力となる。数学者が数式で宇宙を観るのと、物理学者が物理で宇宙を観るのと方法や形は違うが結果は同じ物を観ていると私は思う。
1ー1=0 数式のx 
 この0の不思議やxの正体を知る原理はまさに佛教の「空」であるし、アスリートが体感する世界も、お婆ちゃんの祈りの世界も、佛教の修行者が経験する世界も皆つながっている。心を起こそう。目覚めよう。
            令和三年九月二十一日

《お知らせ》
弘元寺の住職交代し、泰教が住職となります。合掌

   令和3年9月21日 南無大師遍照金剛ありがとうございます。     


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