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 「自分に問いかける」
 
 こんにちは。お寺にお越しの方はご存じと思いますが、
 この法話は毎月 A4のプリントで配布しているものをそのまま転載しています。
 今日もあなた様にとって、良い日でありますように。



「自分に問いかける」


 「あなたはどんな人間か。」と問われた時、
人は自分の理想の姿を「本当の自分である」と認識する傾向にあるそうだ。

特に世界と比べて日本人はその傾向が強いようである。つまり私たちは自分のありのまま、等身大を自分と捉えるのではなく、理想とする想像上のわたしを自分の本来の姿と誤認しているようだ。ただ内在するすべての能力を真に発揮するためだとか、明らかな目標に達するための手段として認識し、そうしているならば良いが、それでも、それがただの勘違いでは苦しみを生む原因にしかならないのは世間の承知するところである。

 「つらい」という気持ちを状況的に紐解くと、先ず①そもそも何もかもが宙に浮いていて、掴めるものも何もなく辛いのだという状況と、②理想と現実が乖離(かいり。そむき離れる)していて、思い通りになっていない現状が辛いのだという状況がある。

②の乖離状況にも大きくは2つのパターンがあって、一つは誰がどうみてもその状況はつらいよねというのと、一つはそれはあなたがどうしてもその状況でなければならないの?、気が収まらないの?と言われてしまうものがある。
まとめると①の宙に浮いた感覚ならば仏教でいう「無明(むみょう/明るく無い)」。何も分からない、見えていないという状況だ。②の乖離も同じく無明の延長線上にあるのだが、認識・認知を整えていくことで解決に向かっていく。

そもそも仏教における己が正しく認識するというトレーニングにおいては、他人の評価などは何の意味も持たない。だが一方で私たちはすべてのつながりの中にあるという事実のもとでは他との正しいつながりは必須である。

 もとい、正しく自身を認識することが目的とならば、その為にまず認識する主体である自身の心を整理することが第一歩となる。
その方法として呼吸に目(意識)を向ける。心・意識が囚われているものを一度手離していく。目で見ているもの、脳が認識しているものを切り離してみる。感覚器官を丁寧に扱い、感じる。その構造を理解していく。言葉を離れる…。

 これらが難しく感じれば、お写経をする、印仏(仏さまのハンコを押し、仏さまを造立する)、五体投地の礼拝をする、お寺に日参する、護摩に参るなどからはじめるのも良く、自分の業(ごう/カルマ)を浄めるにはとても有効である。

 さて、自分の「思いを叶えたい」という気持ちはとても大切なことである。あなたの夢を実現させる確かな原動力となるものですから。でもその一方で自分の理想からしか物事を見ていないのではただの毒となり、「自分一人だけ」が満足するこだわりにしかならない。生きる上でちょっとはあっても良いがそれだけでは貪欲さと怒りに振り回されるだろう。

仏の教えは「懺悔(さんげ)」に始まるが、それは自分を守るためである。貪欲や怒りを消し、自分だけの考えを戒める力があり、繰り返さぬ智恵と意識が備わる。懺悔は己を消極的にするのではなく、積極性と真の成長を促すものである。そしてその意識の成長こそが真に自身を自由にするのである。ただの思い込みから確かな自身を知る。そして自身の立ち返る場所がわたしとなった時に、恐れや不安は自然と消え、喜びや感謝の多い気付きの生活に変わっているはずである。

 つねに私たちは選択をして生きている。それが無意識の行動よりも、意識し選択し行動している方が悔いがない。こころ、意識を浄めた自分が拠り処となれば素敵なことです。世界が明るくなる。神仏とも自然と見(まみ)える自身となる。

 一つのことを大切にすること。無心に感じること。観察すること。
すると、あらゆるものがただの小さな点で存在しているのではなく、縁となり、線となり…互いにつながっていることに気付く体験もできることでしょう。
自分とは何であるのかを知る、さまざま実践してみてください。

 お大師さまは自分が救われることが最終目的ではありませんでした。普賢菩薩が理想としたように、すべての存在が迷いから救われる世界を目的とされました。
ただし、やはりまずは自分を真実に知り、自分が救われることからです。


   日切大師弘元寺 平成三十一年二月廿一日



 引き寄せて 結べば草の庵(いおり)にて
   解くれば もとの野原なりけり

     (天台/慈円 慈鎮和尚 1155~1225)

   わたしが草ならば、私は何とありましょう。



   平成31年2月21日 南無大師遍照金剛ありがとうございます。     


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