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 「 この世とあの世を考える(三)」
 
「(輪廻)生まれ変わりの中にある 自身の本質を転換するお話と、浄土と仏さまのお話をしたいと思います。」などと先月の私は今日の私に課題を残していたようです。
さて困ったなと思いながら・・・、最近は平安時代の僧侶が
「臨終に向かう時のこと」や「浄土に赴くために必要なこと」を書き記した書物を読んでいたのですが、それらには、私たちが仏さまという存在にいかに向き合えば良いのかとか、
臨終の「その一瞬」がいかに大切かなどということが説かれていました。
生まれ変わるということは、肉体が滅んでも「続くものがある」ということですが、
それって何なのでしょう。普通の感覚で自分を考えれば、例えば今見える自分の【手のひら】。
これを見れば自分という姿の一端が見えますし、【自分の喜び】の感情。
これを見ても自分の姿の一端が見えます。【自分の悲しみ】の感情。
これを見ても自分の姿の一端が見えるわけです。自分を知る方法は山ほどあって、そのどれもが自分だよなと考えられる訳です。どれも正解。なんですよね。

 でも結局、自分の本質は何かとなると【魂】と考える人もいれば、
古くからの仏教学派では【心】や【識】と考えたりもします。どれも自分。だけどその自分を見る目線はよく移り変わる感情、気分によって変わってしまうもので、気分の良い時はすべてに寛容になれますし、機嫌の悪い時にはすべてが腹立たしくもなる。
たとえ状況が同じであっても感情や心によって見えるものは変わっているわけです。
だからまず第一の関門(バリアー)というべきは自身の【感情】といえるでしょう。
これには過去の経験の整理や回想、色んなことが必要なこともありますが、
この感情がスッキリ穏やかであることや整理がついていることが大切で、これによって私の本性も変わっていきます。それらの方法については住職さんや泰教に訊いてください。
心に満月を観想したり、呼吸法であったり、時間のかかるものがほとんどですが、様々あります。

 仏教の考えはとにかく深い。
「死」が身近に無い。先祖や供養が身近に無い現代では、なかなか自分が生きていることの等身大に出会えません。道路に人が倒れ亡くなられている事もまずありません。
ほとんどの方が死の間際になって初めて「我(私)」に気付くというものでしょう。

 生死・命。本当の私って何なのでしょう。ひとつ間違いのないことは、
波の上に揺られる舟のようであるのが私たち人間の姿だと言えるでしょう。
常に揺られて捉えられず。また常に揺られに囚われている。
この揺られが感情・意識・思い込み・執着であるわけです。
意識の転換。本質の転換。
これってなかなか難しいことですが、今日、3年程まともに働かなかったという男の子が言っていました。やる気が起きなかったし、きっかけが無かった。結婚しようと考えて働かなきゃ!と思えるようになって・・・。彼も今は立派に働いてお父さんになっています。
「きっかけ」を作るのは難しい。

今月も「浄土と仏さま」の課題を残しましたが・・・、
私が拝んでいて感じることというのは、とっても気持ちの良い穏やかな世界に入っていくとか、この世では表現できない光や華や空間、仏さまの浄土という世界に入っていく。そういうものなんですね。

 皆さんもそれぞれ、この世での色んな極楽と思える場所や時間がお有りだと思います。
そういうのとは一線を画す、本当の浄土。
ここにちょっとでも入ればすべてが変わっていきます。
そして仏さまの心にかなえば(なれば)驚きの連続ともなります。

最近のスローガン(標語)は、
「一日一瞬でも人間になろう!」です。ここでいう人間とは、
人間本来が持つ【仏性】に目覚めた瞬間の人間。

一日ちょっとでも目覚めてみませんか。不思議の連続です!


南無大師遍照金剛ありがとうございます

   平成27年10月21日 南無大師遍照金剛ありがとうございます。     


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