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 「 この世とあの世を考える(一)」
 
 【四有】という仏教の言葉があります。
衆生が生まれ、生き、死に、次に再び生まれるまでの間の四つの時期、
「生有・本有・死有・中有」のことです。

なんだか難しいなと思われるかもしれませんが、
これを読んでいる皆さんは四有を何度も繰り返して今ここに生きています。
「死んで初めてあの世に行くのでは無い。
生まれ変わり、生まれ変わり、私たちはそうやってここに存在しているのです。」

【衆生】とは、私たち六道の世界を生きる全ての存在のこと。
また情(心の働き)の有るものとして【有情】ともいいます。

【六道】とは迷いの世界
(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)のこと。
私たちは偶然(偶然と書いて必然)にも人間として生を受けているわけです。

そして【六道四聖】といって凡夫の迷いの世界と、四聖という聖者のさとりの世界
(声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界)があって、

私たちは仏・菩薩の慈悲や教えに礼拝し、供養して、
その境地(世界)に到れるように日々、精進努力を怠らぬようにするわけです。


 しかしながら問題というべきは、前世からも繰り返している、悪い癖に気付かぬこと。
今日もその心の相続によってそれを繰り返していることであり、
そういう幾度となく同じ失敗を繰り返すことを二の舞を演じる、
仏教では
【業(karma)】が尽きぬといって、これに縛られて生まれ変わりを続けることを
【輪廻】という言葉で教えているのです。
私たちはこの生存の有り様を十種に分けた世界【十界】にいま生きています。


 今回は死後の世界、死後の世界のしくみについてお話をしようと考えたのですがどうやら一話では話しきれません。数ヶ月シリーズでお話していきたいと思います。
 さて、人が亡くなると葬儀をしますね。ある人は、仏教はそもそも葬式なんかしない。いまの葬式というものは儒教の思想から来ているものだ云々、と色々皆さん言われますが共通しているのは大抵が自分にとって楽な手段が選択できる情報を集めたようなものが多いように感じます。
必ずしも葬式の「意義」を押さえたり、そもそもの「インド思想」の背景、「輪廻と解脱」であったり、儒教の「先祖崇拝」、道教の「魂魄」観、日本の墓、死霊観を踏まえて語られてはいない。

 ではインド思想における輪廻を考えてみよう。まず葬送儀礼をみれば遺体は燃やし、骨を残さず、灰にして肉体(物質・骨)を残さないようにしている。本人を物質的にも意識的にも完全に消滅させ、輪廻の上にある今世にある一定の区切りをつけさせている。
 対して東アジア文化になると、魂魄観によっては(天に昇る精神を支配する魂と、地中(墓)に留まる肉体の魄)、今まであった存在をある一種の形をもって留めることが重要なものとなる。ここで既に大きな違いが起きる。肉体とはただの抜け殻であるから死ねば無用のインド仏教、死んでも肉体は重要なものと考える儒教。そして日本文化は紙面の関係上割愛するが、さまざまな信仰、祈り、供養が混ざり合っている。  紙面の関係上 収拾つきませんが、まずは

  【業】【六道輪廻】生まれ変わりを知り、
  【自分の心】を今一度見つめて、
 また【仏さまの目線から】自分を見るのも、
今まで分からなかったことや、
自分の内にある恐れの本質にも気付けるようになることだと思います。
第一には
有るもの、見えるものから感謝をし、
手を合わせる所から参りましょう。 


 南無大師遍照金剛ありがとうございます


   平成27年8月21日 南無大師遍照金剛ありがとうございます。     


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