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 「 生かされていることに日々気付きましょう 」
 
 普通 私たちは「なにかを考える」、「なにかを知る」というと、頭で考えることがその唯一の手段であるかのように思っています。これはどういう意味でしょう。俗にいう直感、仏教でいえば「智慧」が大切だということです。直感と智慧はその差とても大きいのですが、ここではただ頭であれこれ考えるだけが正解を導くものでは無いということをお伝えしたいので同じような意味の並びにしています。

仏の智慧は俗にいう直感を超えています。直感は肉体や物理的に現象するだけの意識の世界を超えてスパーン、ピンッと理解する、分かったりするものですが、仏の智慧というのは五感(視覚、聴覚などの体の感覚器官)のくさり、縄の囚われからも抜けだし、執着の一切からも自由となり、縁起の道理を識(し)り、過去現在未来という三世の世界の成り立ち相(すがた)を識り、一切の偏見からも抜けだし、しかもそれをもってものごとを明らかに観察し、明らかに判断して言葉も二元論も超えて不動の真理に立ったものをいいます。俗人の直感というのはその真理の根っこを押さえていなかったり、その場その場で当を得ているかもしれないが、永遠不変の真理や変わらぬ絶対の安心感をそなえたようなものではなかなか無いようです。

この生滅をくり返す世界において絶対に動かぬもの、その真理、実相真如を得て見える世界は夢の世界と起きている世界のごとく、まったく違ったものです。頭(今日まで生きてきた中で得た経験値)だけを使って判断することは本当に本当のもの、真の価値を見ている、などといえるものなのでしょうか。長年連れ添った夫婦でさえも相手にそんな一面があったのかと驚くようなことがあるように、いつも分かった気で生活しているのが私達なのです。


 世間的な常識やマナー、ルールは頭で考えるものですが、それを支えるのはあなたの心と言えるでしょう。弱い心はルールを守れません。例えば朝6時に起きなければならないのに、もう少し、もう少しいいかな、と弱い心は自分の意思、昨夜の決意さえもにぶらせます。もう少し自分に強い意思、心があればな・・・とそのように思ったことのない人はいないでしょう。頭を鍛え、知識を得るのも大切ですが、おなじように心も鍛えなければそれを正しく使いこなすことはできません。


 仏を知る、仏さまに見習って日々の生活を送るというのはまだ知らない自分の真の価値を見いだすきっかけとなるでしょう。さとりを得た仏さまはまず朝寝坊はしないですよね。仏さまといわれる如来や菩薩さまは大変な修行を得て目覚められた(さとりを得た)方ですから、自分の内側にある弱い心などは当に克服しているわけです。また決めたこと願ったことを必ずやり遂げ、叶えるのが仏さまですから当然というわけです。しかしながら自分にも弱かった頃があったのだ、苦しかった頃があったのだ、物知らずであった頃があったのだと私たちの目線まで寄り添ってくださるのが仏さま。苦しみを知っているからこそ、他者の苦しみを放っておくことなどできないのです。

久しぶりに六波羅蜜を復習してみましょう。
「布施(ふせ)、持戒(じかい)、忍辱(にんにく)、精進(しょうじん)、禅定(ぜんじょう)、智慧(ちえ)」の六つをロッパラミツ、ロクハラミツといいましたね。
この六つは仏さまの修行項目。この実践を私たちも日常生活に取り入れられれば自身の心をまことに強くさせていきますし、だんだん目が覚めたような状態に自分を導くものでもあります。
もう一度言います。覚りとは目覚です。


 かのお釈迦さまも、覚りを開かれるのに絶対に挫けぬ心、大精進の徳(力)をもって禅定に入り、絶対の智慧を得るにいたりました。
ちなみに雑念を去って一心に佛道を修行する精進の力を得る為には耐え忍ぶ力(忍辱)が、
忍辱の為には普段から大切なもの・決めたことを持っていることが(持戒)、
生きる上で大切だと思うことを持つには自分一人で身勝手に生きず、他者に施す行い(布施)が必要となってきます。 最後の智慧(さとりの智慧・仏の智慧)にいたるにはやはり布施の行為から始まります。

ちなみに仏さまの布施の行為の一つに《施無畏(せむい)》というものがあります。これは生きるものの《怖れを除いて安心を施し与える》ことをさします。私はこれが非常に素晴らしい力、仏さまのありがたさだと思います。親も子(赤ちゃん)の不安を取り除く為に抱きしめたり、手を差し伸べたりするわけです。子は安心すると穏やかな顔でにこにこ笑います。私たちも不安が無い時はどんな状態になるでしょうか。何でもできるんじゃないかと、とても前向きになれるものです。仏さまのちから、仏さまのこころはやさしいやさしい親の力、親の心のようなものです。

 この世の本質はもっと喜びで溢れています。恐れをなくした瞬間にそれに気付きます。
この世の本質は「生かし合い」でできている。私の口癖ですし、密教の曼荼羅が教えるものです。私たちはなぜ迷うのか。自分の力で生きていると錯覚するからです。

昨日私の弟の結婚式があったのですが、その中で弟が言っていました。
「お父さんがいたから、お母さんがいたから、お兄ちゃんがいたから今の僕があります。この感謝はとても言葉では尽くせません」と。これが仏さま、お大師さまの教えの一つの姿であると思います。
仏さまはいつもどんな感謝や喜びを胸に秘めて私たちに寄り添ってくださっているのでしょうか・・・。自分一人では生きられない。

私たちは 言葉では尽くせない世界に生きているようです。


今日もありがたい。


                 


   平成26年12月21日 南無大師遍照金剛ありがとうございます。     


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