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 「目を凝らす 見えない星を見るように 君を知りたい」
 
 0人称という言葉をご存じですか?

一人称は「私(I)、われわれ(We)、ぼく、ぼくら」などの自称(じぶんのこと)を言いますね。二人称は「あなた(You)、あなたがた、きみ、きみたち」などの対話の相手、対象を言います。三人称は「彼(He)、彼女(She)、彼ら・彼女ら(They)、これ(This)、あれ(That)、それ(It)」などを言い、これは一人称、二人称の関係では無いものであり、話し手と聞き手、書き手と読み手の関係ではない人や事柄を示すものです。つまりその場のものには直接関係しない人や物などを指すのが三人称となります。

 ここで思い出してみましょう。これらは学校の授業で習っているはずですが、いつ習ったものでしょうか。「人称」の概念ですから国語かなと思いきや、皆様きっと英語の授業で習ったはずです。
何故ならこれはもともと日本語には無い発想と概念であり、彼、彼女は明治以降に使われるようになった輸入語であるようです。中国語、フランス語、ドイツ語など、当たり前のことですが言葉によって言語構造、構成が違います。
日本語の特徴は「わたし」の自己同一性が豊かであることでしょう。
例えば、孫がいれば私が「おじいちゃんは~、おばあちゃんは~」となるし、生徒がいれば「先生は~」、また「俺、わたくし」と周囲の環境によって自分のことを変化させます。西洋言語が入って来て、条件に左右されない「独立した個の私」に出会った日本人。ちなみに佛教ではこの世に独立した個、存在など無いと言い切ります(縁起観)。
現代人にとって今や個は当たり前かもしれませんが、当時はどのような衝撃があったのでしょうね。想像すると面白いものです。

 そして0人称The Zeroth(0th) Personもまだ社会では確立された言葉ではないようです。ある説明では、三人称に似ているが、しかし語り手の性格を排除したものと言います。要はその人称に主観性が無いことを条件としたいようです。こういったことを深掘りしていくと四人称という概念もあることにはあるようですが、話がややこしくなるので興味のある方はまたご自身で調べてみてください。

 さてどれだけ科学が進歩しようとも、何年先になろうとも、人間の持つ「私という問題」は無くならないことでしょう。佛教の一大テーマも「我(我執)」。
人間はずっと自分というエゴ(利己主義)によって自分で自分を苦しめ続けて来た歴史を持ちます。そのエゴも、まだ自分一人の中で葛藤するものであれば良いのですが、エゴはしばしば他者を巻きこんで戦争や大きな苦しみの渦を作ります。
もちろん成長とは他者との良好な依存関係におけるご迷惑のかけあい、傷と修復の連続性。筋肉の分断と修復のようなものであったり、恋人ならば甘く苦いすれ違いや傷付き癒やしの連続性の中にあるものでしょう。
ただ…私は人の苦に向き合う度に、つくづく本質的な「人間の成長」とは、いったい何なのだろうかと考えさせられ、ずっとその連続性の中に身を置いています。なんだか輪廻の構造と同じですね。

 ひとつ分かるのは大人になる(年を取る)ことが即ち成長するとは違うということ。ただ生まれて死に向かうことだけでは成長とは言わない。
真の成長とは「生と死を超えた」、いわば悟りの境地のようなものでなければならないと思います。これは残念ながら死んだら終わり、と考えている間は気付けません。連続性と終焉と超越は違うのです。
何だか難しいなと倦厭されると困るので、まずポイントは
利己主義や、支配的な感情、思考から抜け出すことから初めていただく。
また生命の連続性、自分のいのちの広がりに気付いていただく。
これは頭の先の知的学習だけでは絶対に気付けません。五感と肉体、深い精神をともない、あらゆる壁を取り除いて真の人間としての成長は得られます。
 或る人は「身心を酷使すること」を一つの条件として表現されていましたが、山に入る修験道も、少し厳しい修行をするのも、生きていれば必要なことと私は思います。若者は体が元気なうちにこそ、煩悩を見つめる修行をするべきでしょう。素直な心で物事の実相を観る。多くの人が本物の人間、一流の人間になって欲しいと思います。

 今月の0人称の話、おそらく私が初めてこの語を耳にしたのはジャーナリズム(時事的な問題の報道・解説・批評等を行う活動)に関するものからだったと思います。正確な意味では無いのかもしれませんが、この0は失われた、無いの0を意味していました。
トルコ・シリア大地震の死者は4万5千人超と報道されます。仕方の無いことかもしれませんが、ここに一人一人の顔は見えません。いのちが見えない。大きなくくりで説明した時に埋没する一人の個が失われることを0人称と言うことがあるようです。
これは何も大きな数だけのことではなく、皆様の一対一の日常でも起きます。「あなたは○○だからね~」と大人になればなるほど、私たちは一方的に決めつけて(ステレオタイプ)相手の個を殺していることが多いと思います。
目の前にある「個」を殺さない。無の0にしないこと。
日頃から一対一を大切にせずして、どうやって多数の中にある個を大切にできるでしょうか。
 昨日、戦争で亡くなられた一人の若者がどのような性格であり、人生を送っていたのかを記す立札が立てられているというニュースを観ました。こういった行動は一人の命に向き合い、尊ぶ大切なものだと思います。ただこの立札がそもそも立つことが無くなるように人間は進化しなければなりません。
まず私たちは日常生活から見直して、一人一人が、相手を0(無き者)にしないよう心がけることから。また、こういった0を埋める手助けをするのがこれからの科学技術AIになることでしょう。一、二、三人称の隙間を埋め、遠近にある「見えない、気付けない」の手助けをしてくれるものになると私は期待しています。
またAI+compassion(思いやり/大智大悲)も今後の大事な概念の一つとなるでしょう。この話は次回に…


令和五年二月二十一日


《ご修行案内》
26日(日)府中市 十輪院「柴燈護摩・火渡り修行」
3日(金)「毘沙門天」朝5時
5日(日)「水子供養・護摩」10時~
6日(月)「大黒天 一時千座法」23時
12日(日)「弁財天 護摩」20時
21日(火/春彼岸)「合同供養祭」於福山霊苑 10時~
   「大師御縁日 護摩」13時~、20時~

   
   令和5年2月21日 南無大師遍照金剛ありがとうございます。     


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