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お釈迦さまは何を説かれたのか。 | ||
「お釈迦さまは何を説かれたのか。」 「諸宗の祖師とその教え」を 令和2年5月の法話で紹介しました。 お釈迦さまの言いたかったことは何か?これをよくお坊さんに尋ねるのですが、 皆必ず、「うーーん」と唸る。 お釈迦さまの根本的な教えは、 諸行無常・諸法無我・涅槃寂静(三法印)。 一切皆苦(四法印)。 四聖諦(苦集滅道)。 中道。 八正道(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)。 三学(戒定慧)。 十二因縁/縁起(無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死)。 諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意(七仏通戒偈)。 と、まぁいろいろ 有るわけです。 般若心経「空」の思想は二世紀に生まれたインド僧、龍樹が書いた『中論』によって確立していきます。 初期佛教において「空」が無かったわけではありませんが、 サンスクリット語でいうśūnyaの「空」は「空っぽ」という意味で 三法印で説くところの無我と同じ意味として理解されます。 「実体が無く空しいこと」、「欠如。欠いている」というように理解します。 それが段々と大乗仏教と言われる世俗を巻き込んだ教えに発展していくと、 すべてを否定して真理を理解していく初期佛教から、肯定していく教えへと変化していく。 たとえば「諸法実相(これを大乗の一法印と言います)」という言葉や 「真如、法性、法界」という語で顕されていきます。 つまり全ては実体が無い、所有物(あらゆるもの)から離れていく教えから、 実の相(そう/すがた)を見いだそうという方向性(ベクトル)に移行していく。 言葉にするとちょっとのことだが、この意味はとても重要で、十分に否定をした後に全肯定へと移行したことは人類の哲学大系においても非常に大きな意味を持つと思う。 詳しくは後述するが、「すべては神という絶対者に支配される/与えられたもの」とする思考、思想の中では普通起きえないものであるからだ。 話を戻そう。大乗による肯定の働きかけ「実相を見いだそう」という転換(アプローチ)により初期佛教の否定していく「空(欠いている)」の理解がどう展開していくのか。 (本来、実相は否定も肯定も、二元論を克服、超越しているものだが今はあえて否定と対比するが…) それは「縁起の観察」の結果を空と理解していく。初歩的には、様々な縁によって対象物(法)はあるのであって、固定された、そのものだけで実体が成立するというようなものは無いという理解に落とし込む。 ちなみにこの辺りで上座部(声聞・縁覚の二乗)の修行者と、大乗の菩薩が求める悟りの境地は、明らかに違うものになっていく。簡単に言えば、煩悩を消し去って因も果も縁起も消滅した悟りの境地である「灰身滅智(けしんめっち)」という上座部と、自分だけが解脱する道に入らず、思い通りにならぬ繰り返しの苦「輪廻」の中にあるすべての存在(衆生)と共にして、般若の智慧を完成させる大乗菩薩の悟りの境地となる。 この菩薩たちの「すべての事象、万象の道理を明らかに見抜く深い智慧」を「般若」、 サンスクリット語でPrajñāプラジュニャーと言うが、 この深い智慧は空の理解によって初めて「得られるもの」という。 つまり《否定》から《肯定》へと。 《出世間》から《世間に舞い戻る智慧》へと。 《俗世より離れるを初めとし、全てを手放しきる》ことから《俗世の迷い(無明)を克服した後にすべてを手の内にすくい取るもの》へと。 求めるものの変化である。 消え去る無我の涅槃寂静から、寂静より自他を隔てずして慈悲と共に観察を始めるエネルギーへの転換が起きるのである。この積極的な菩薩の智慧である「般若」が求められた時に、 「空」は世俗(苦)を単純に離れようとする否定のエネルギー(消滅に向かうもの)から、衆生(苦)も聖者(解脱・悟り)もすべて同じように飲み込んだ上での全肯定のエネルギー、 「即ち包み込んだもの(胎蔵曼荼羅)」、 そして「観察する智慧(すべてを導き救う説法/金剛界曼荼羅)」へと昇華される。 空の原型「シューニャ」で悟りを理解するか、大乗の般若「プラジュニャー」にたどり着くための空として扱うかで理解が変わってくる。後者の空はより手段や要素的なものとなる。 最近の流行りで例えてみよう。鬼滅の刃、LiSA「紅蓮華」の歌詞中にある「ありがとう 悲しみよ」。こんな感じか。 つまりある目的の為には、苦さえも「ありがとう」に転換できたよ。 即ちある種の強さと幸せを願う力の発揮である。紅蓮華では誰かのため。同じように大乗佛教ではすべての衆生を済度するため。強く生きる教えになるのだ。 さて、お釈迦さまの教えは何?と改めて尋ねられれば、やはり難しい。 今のところ私は去年の法話にも書きました、「縁起と解脱」に先ずは収められるかなと思います。 また別紙にしますが、お釈迦さまが悟られた故に主張された大きな功績は「支配者の神とバラモン(祭司者)」たちからの解放であったでしょう。 この世界のすべてが神によるものならば私たちは救われない。そこに気付かれたのがお釈迦さまの大きな功績でありましょう。すべてを救えず、手を差し伸べる人を選別するは真の神ではないでしょう。世を戯れる六道輪廻の天部の境地である。 佛教は何かに支配されない教え。すべては自分の根本的な迷い(無明)に因っている。 それに気付けば「自灯明」と成れる真理を明かしていきます。 近い未来に起きるかもしれない、戯れの一部の人間によるものか、AIか、その監視社会が支配として現れた時、さてお釈迦さまの智慧は発揮されるだろうか。 誰かの都合による支配構造からの脱却は佛教のテーマである。 慈悲と智慧の祈りよ… 令和三年三月二十一日 |
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令和3年3月21日 南無大師遍照金剛ありがとうございます。 |