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真如の月とは。 光明真言を解説してみましょう | ||
となえたてまつる光明真言は 大日普門の萬徳を二十三字に攝めたり。 おのれを空しうして一心に唱えたてまつれば 仏の光明に照らされて 三妄の霧おのづから晴れ 淨心の玉 明かにして 真如の月まどかならん オン アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マニ ハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン 「となえたてまつる」。 まず「読誦(どくじゅ)」という言葉から分解してみよう。目で見てお経を読む「読」と、そらで覚えて暗誦(あんしょう/あんじゅ)する「誦」の合成語。お経は読誦する。真言は誦すとよく言いますから、 御真言は暗誦するものとして、瞑想する時のように目は半眼に静かにし、そして心に御真言を浮かべ、佛(本尊)と一緒にお唱えするようイメージします。 「大日」は大日如来。 「普門」とは一門普門、普門示現など言葉があるが、「普(あまね)く」と読むように全てに通じる、総じたもの。 「門」とは出入することを意味し、人が門を得たならば入るも出るも自在である。 普門という言葉だけでも噛んで味わい深いものがある。 「萬徳」とは万の功徳。 「二十三字」はよくどこにあるのかと訊かれますが、梵字にしてみるとすぐ分かる。 数えてみましょう。 「空しうして」は、実には佛のさとりの心をもってという意であり、ただ からっぽにしてということではない。諸行無常、諸法無我の境地である。すべては尊い縁によって起きているという事実に立つこと。 そうするともう、それによって私が般若の智慧に照らされているのだが、 また光明真言という 佛の真実語 に照らされるのが肝心。真実は 照らす のです。 「三妄」とは三妄執(もうじゅう)、貪・瞋・痴と理解しますが、 真言宗の真意からすれば麁(そ)妄執・細(さい)妄執・極細(ごくさい)妄執のことである。 「淨心の玉」とは私の本質的な、本来の有様。 あらゆる煩悩・随煩悩、執着から解き放たれた状態と考えたら良いが、 弘法大師『念持真言理観啓白文』には、 「一念の浄心(じょうしん)は 宛(あたか)も帝網(たいもう)のごとし。 両部界会(りょうぶかいえ) 何ぞ影向(ようごう)したまはざらん。 一刹(いっせつ)の深信(じんしん)は なおし珠玉(しゅぎょく)のごとし。 十方の諸仏なんぞ証明せざらん」 とあるので、この境地をよくよく理解したいものである。玉とは王のように大事なもの。 さて「真如の月」であるが、「まどかならん」とあるので、 ここで重要なのは自身の「真如の月」を積極的に顕現(あらわ)した状態を指し示している所である。 前文に空しくするとあるので、見えなくするかのように捉えられがちであるが、 「自身の曼荼羅をここに明らかにする」のが密教であることを忘れてはならない。 大覚の如来の身と真言と心(三密)を念じ、感応道交(かんのうどうこう)して現していくのである。 やはり光明真言、 900文字程度ではまったく説明しきれないことはよく分かった。 よく念誦されたし。。 令和三年二月二十一日 《三月 ご修行案内》 3日(水)「毘沙門天」 朝5時半 7日(日)「水子供養・地蔵 護摩」 10時 16日(火)「大黒天一時千座法」 23時 20日(土)「彼岸中日 合同供養祭」10時 於福山霊苑 21日(日)「お大師さま御縁日」 ①10時 ②20時 どちらかにお詣りください。 写経奉納。祈願護摩木。先祖供養塔婆。 ※密を避ける為、午前と夜に護摩を焚きます。 22日(月)「弁才天護摩」 20時 ※3月4日「府中 十輪院」 十一時から大般若転読。十三時から柴燈護摩。 |
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令和3年2月21日 南無大師遍照金剛ありがとうございます。 |