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宥善和尚の人生を振り返って | ||
「ありがとうなれ。ありがとうなりさえすれば、それより大きな幸福はない。」 宥善がよく口にした言葉です。 村上宥善(ユウゼン) 大正九年五月二十日(戸籍上)生まれ 令和元年十二月九日 帰寂 行年百歳 宥善和尚の本当の誕生日は大正九年(庚申/1920) 四月二十一日、旧三月三日。お大師さまのご縁日とお雛様と一緒の日に生まれました。幼少期の様子は分かりませんが、当時の義務教育、尋常小学校6年、高等小学校2年を終え、齢14歳にして石鎚山の極楽寺に入りました。当時の高等小学校の生徒会長は成績が一番優秀であった者が指名されたそうですが、和尚は生徒会長であったそうです。 和尚の父は弘元寺を開山した宥榮(ユウエイ)。京都で易、気学・地相家相等を学び、妙心寺(臨済宗)で修行した後、故郷に戻り弘宗寺に入るも、しばらくして真言密教を学ばんと極楽寺の宥心に師事しました。 和尚も同じく宥心の弟子となり、まず修行の初めに一日三千遍の礼拝を一年程続けたと聞きます。 朝は三時頃に起床、食事は正午まで。修行が長引くと昼を食べれぬこともあり、本当に痩せ細った体の修行僧だったと聞きます。年頃は今でいう中学生です。和尚は、「わしはいらん子だったんよ」と語ることもありました。山奥の寺に預けられ、どのような思いをして過ごしたのでしょう。師匠は竹の棒を持ち歩き、ビシッビシと言葉の通りに教える人でありました。よく叩き込まれたと、これは和尚のよく語る思い出話の一つです。 和尚はうどんが好きでしたが、お腹を空かせた成長期の小僧さんにと近所の人が食べさせてくれたのもうどんであったそうです。その味が有り難く、有り難く、合掌の心であったのでしょう。「無い」を経験しないと「有る」ことを気付けないのが人間です。想像でも良い。私達は大切なものに気付くために努めるべきことがあるよう思います。 和尚は新しいものよりまず今有るものを大切にする人でした。うどんのエピソードには、いつも冷たい飯しか食べてないからと近所の人が気を遣って温めてくれていたが、そのお陰で正午の時間が来て、目の前にあるのに食べられないこともあったそうです。この話の最後には必ず、 「有り難いんじゃがのう…」と口にするのですが、今思えばそれ以上の言葉を口にしなかった所に、他者の気持ちを大切にした宥善和尚の生き方、姿勢があったのだと気付かされます。 和尚はよく「みなさまが幸せになるように祈らんといけん」ととにかく口にしていました。晩年、目に入れても痛くないと顔をほころばしていた孫の名前さえ覚束なくなってきても、この言葉だけは最後まで繰り返していました。和尚は本当に本気であった。ずっと真剣にすべての人の幸せを心の底から祈ってきたのだと改め知り、矢で射抜かれた気持ちになりました。(愛染様の矢も慈しみの矢です) お参りご相談の皆様には怒ったり、厳しい言葉も多かった事と存じますが、葬儀の折にある方から、 「大先生は厳しいながらも、私は深い愛のこもった言葉をずっと沢山いただきました」とご挨拶いただきました。その言葉から、和尚は百歳を生きただけではない、和尚は自身の人生(慈悲の仏道)を全うできたのだと確信するものとなりました。 言葉過ぎ、お心を痛められた方にはお詫び申し上げると共に、和尚が百年の人生に積みし修行の功徳の全てが、皆様へめぐらされますよう、すべての生命に廻向されますよう、故人に相代わって今日もまた、お祈り申し上げます。 九拝 日切大師弘元寺 令和元年十二月廿一日 《 お祈り・行事案内》 22日(日)「仏名会」10時 一年間の懺悔 (三百礼拝) 「しめ縄作り」13時 31日「大晦日/納めの水行」23時半より 令和二年元旦 「鳴釜神事 神祇法楽」0時 「護摩 初祈祷」 10時 ・家族で新年のお大師様のご祈祷を受けましょう 5日(日)「箕島八十八ヶ所霊場巡り」8時出発 21日(火)「お大師さま御縁日」20時 お写経の奉納・先祖供養・祈願成就 「大黒天 一時千座法」23時 26日(日)「宥善 七七日」 15時 お別れ会として、一時間程の法要を本堂に於いて予定しています。尚、直会等はありません。自由にお参りいただけますので、どうぞご焼香にご参会ください。 27 日(月)「弁才天護摩」20時 2月 3日「節分護摩」20時 (星供の祈祷1日~3日) 《おねがい》大先生の人生を振り返りながら、大切にしていた考え、言葉や人生訓を以後も紹介させていただきます。つきましては皆様と大先生との思い出、言葉を是非とも教えていただければ幸いです。 |
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令和元年12月21日 南無大師遍照金剛ありがとうございます。 |