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「 とうのたった野菜 」 |
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「たいきょうさんは、よく修行もされとってですし、 普段からあまり腹が立ってんことは無いでしょう?」と聞かれて、 「そうですねぇ。修行のお陰かどうかは分かりませんけど。 じゃあ、○○さんはそんなによく腹が立つことがあるんですか?」とお訊きする。 「そりゃあ、よう腹が立ちます。 寝てても腹が立つ。というくらいです。」 ※よう=よく。 「え?そんなにですか!? 具体的には?」 「私なんかは、葉っぱが肩に当たっても腹が立つんです。」 「えー!? 。 。。 あぁ 季節が変わるんだなぁ。 (心地よい)風が吹いているんだなぁ。とか そんな時、僕は思いますねぇ・・・。 でも、葉っぱが肩に当たってもですか!?」 「まぁ、掃除をしとる時とかにです。こなくそぉ。なんで落ちてくるんな。」と 「ほぉーう(笑)。まぁ葉が落ちるのも 自然なことですからねぇ。」 「まぁ、寝てても(体は寝転がっていても) 腹が立つ(おなかだけは立っている)。と、 おもしろうに言うくらいですから。」 「(笑)。そういうような諺(ことわざ)?ですか、あるんですねぇ。 まぁ腹を立てても良いことはありませんし、 自分が考えることも、腹を立てていては迷いますし、 ま、腹は立てない に越したことはないですよね。」 「ちぃと私も修行をせんといけません(笑)」 ※ちぃと=もう少し。 と、いうようなお話しをしながら、 確かに、何故、人は腹が立つのだろうかと考えた。 原因や、すぐに怒らない方法など色々ありますが、 幾つかの答えを知るよりは、まずは自分が怒りを覚えた時に、 「さて私は何故いま腹を立てているのだろうか。 本当にいま腹を立てる必要はあるのだろうか。」など、 自分の気持ちに対して問いかけをする。観察をしてみてはどうでしょう。 目の前にある「ものごと」の正体を知ることは、 時に不安や恐れをともなったり、怖かったりする場合もある。 しかし、目の前に起こることは前の世から続く「あなたの命(魂)」が、 今世のあなたに課せた十分に意義のある問題ですから、 この世の命が尽きるまでには解決、克服したいものであるでしょう。 あせらず、ただ一人で不安にならず、 もとより、たくさんの不思議によって、 沢山の生命によって 初めて生かされている存在が 私たちですから、 感謝と、 ご先祖様と、 両親と、 さまざまな縁と。 神さま。 仏さま。 お大師さまと。 本当に素晴らしいもの(方々)と、 本来いつも 共にあるわけです。 そこを知っているか いないかで、 日々の目線は大きく変わるものです。 「大切なことは大切なようにして、 しあわせに生きる為には、 心して過ごす事があるを知り、 その尊い気付きを実践して生きる」は大切なことです。 「ちなみに、そういった諺のようなものや、 例えば家訓なんかが他にありますか?」とお尋ねすると、こんなことを教えて下さいました。 「《とうがたった人間》というのがあります。野菜で《とうがたつ》というのがあるでしょう。」 「ニンジンとか野菜で、茎が伸びて(身が)固くなって食べられなくなる・・・、 薹が立つですか?。どういう意味ですか?」 「そうです。野菜の身が固くなって食べれんくなるけぇ、 人間も古くなる(年をとる)んを《とうがたつ》言うんですが、 それが大切じゃあ教わりました。 普通は食べられんようになる=使い物にならんように思いますが、 とうが立たんと、 花も咲かんし、種もできません。」 ※立たんと=立たなければ。 「ほぉう・・、確かにそうですね。」 「あと、花茎が立ついうことは、身に芯が立ついうことです。 人間も芯が無いのは役に立ちません。」 「スーパーで野菜をみても、 自分が美味しく食べられるかどうかしか普通は見ませんから、 そうか、でも確かにそうですね。食べるだけのことじゃなくて、 次のシーズン(季節)にも、その野菜を食べようと思うならば、 食べる旬を過ぎた、薹が立つまで その野菜を見守らないといけないわけですね。」 「薹を立てて、芯を持ち、 次の世代に、ちゃんと大切なものを残せられる 人間になりなさいということです。」 「ほぉぅ・・・。 すばらしい家訓ですね。 ただ目先の欲だけ、食べられるか、食べられないかとか、 それだけで物事を見ていてはいけない。 そんなつまらない生き方をするな。 という教えでもあるのですね。 ありがたい!。」 70代 男性とのお話でした。 |
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平成27年3月21日 南無大師遍照金剛ありがとうございます。 |