過去の法話へ | ||
「お彼岸と此岸」 | ||
「彼岸というのは死んだ後に行く世界で、此岸(しがん)というのは私たちの生きているこちらの世界」 というようによく皆さん思われてますね。 はい、大旨合ってます。 だから彼岸になったら、亡くなった人たちはこちらの世界に帰って来られて、 まぁとにかくお坊さんに供養なんかしてもらったり、家族でお墓にお参りしたり、 亡くなった人を身近に感じることのできる期間なんだ。 だいたい皆さんの話を聞いていると、そんなふうに思われているようですね。 そうなると、「此岸と彼岸」、私たちはこの二つの世界を生まれ変わり、輪廻して、行ったり来たりしているってことになる訳です。 ですが仏教用語としてもう少し考えてみましょう。 「此岸」とは悩み、迷いに満ちた現実世界であり、「彼岸」とは迷いから抜けだし、煩悩を超えたさとりの境地といいます。ですから、息が止まり、心臓が動かなくなり、魂が肉体から離れたとしても、煩悩のなかで迷い苦しんでいると、死後の世界に行ったといっても、本当に彼岸の世界(仏さまの世界)に行ったとは言えないわけです。 仏さまの世界からみれば、生きている私たちも、息が止み、肉体から抜け出てた亡くなった人も、みんな同じ、「此岸」にいる者たちなのです。死んで魂だけになり、肉体の煩悩から離れた霊魂ならば、もう少しだけ仏の世界に近いとも言えなくもありません。 しかし生きている間、ずーっと自分勝手であり、他人に施すことの大切さも知らず、まわりに生きる命のことを何も考えてこれなかった者の魂は、死んで肉体から離れたとしても、仏の世界に近い所か、とっても遠い世界にあるものです。此(こ)の世界でも、すべてのいのちを尊び、偏見なく、ほがらか、先を見通す智恵があって、そして心やさしい。このような人のほうが仏の世界に近い者といえるでしょう。 ちなみに、「まわりに生きる命」といって皆さんは何を思い浮かべますか? 鳥も 虫も 魚も 草も 木も 花も、仏さまから見れば尊いいのちなのです。 人間だけしか思い浮かばなかった人はいませんか? そういうのを仏教では偏見(の中で生きている)といいます。 さて、彼岸というのはただ死んだ世界を言うのでは無く、 「迷いの世界から抜け出した仏の境地」であることが分かりました。 仏教辞典をもって詳しくすれば、 ・煩悩におぼれる海から、修行によって渡りきった岸(彼岸)。 ・輪廻を超えた涅槃(ねはん)の境地。 ・菩薩の修行の完成を「波羅蜜(はらみつ)」というが、それを「彼岸に到る(到彼岸)」とか「度/渡」と訳す。 といいます。 では結局、お彼岸って一体どんな日で、何をする日なのでしょうか。 ご先祖さまと一緒に仏さまの世界(境地)により一層向かうこと。 まだまだ迷いの世界にいるならば、お坊さんにしっかりお経や真言をあげてもらうこと。 昔は元気で病気にならないようにお坊さんに拝んでもらう日でもありました。 またこの日は太陽が真西に沈みますから、西方にある阿弥陀さまの極楽浄土の世界をよく想える日でもあるのです。 私たちは日常的に「お彼岸」とか「お盆」とか口にしていますが、これはどれも仏教に由来するもので、どれも仏さまのようになりましょう、というもの。言いかえれば、 「目先のいらぬ迷い、苦しみから抜け出して、生きている間からすべてのいのちを尊んで、私もご先祖さまも全ての命も、みんな仏さまになりましょう」というもの。 そんな習慣が日本に根付いている訳なのです。 そしてお大師さま、菩薩さま、仏さまというのは 私たちと親しく一緒になって彼岸に向かう修行してくださる。 上から眺めて導くのでは無く、 仏さまは目線を同じくして歩んでくださる存在なんだっていう事が、 私は凄いことだなぁと思うのです。 人間が一所懸命にこの世を生きるように、 仏(菩薩)さまはずっとすべての命のために、 おなじように修行をされている。 ありがたいですね。 われらと衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを(←お経の最後の廻向の言葉)・・・ というのは、つまりこういうことです。 みんな一緒に到彼岸 ! |
||
平成26年3月21日 南無大師遍照金剛ありがとうございます。 |