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 「心の真実を知るには・・・」 
 
 だんだん、修行がすすんでいくと、
こころ(わたしそのもの)が、
本来あった場所に帰っていく段階というものになります。
 人間が、生まれて、年をとり、老いて、死んでいく。
死んで、初めてあの世に行くのでは無い。
もともといた場所に帰るのだ。
 これはよく分かったことです。

 お大師(だいし)さまは、
そのような境地を悠々とお進みになられ、
密教の教えにふれられては、
自心源底(げんてい)はいかになるものか。
 自身はどのようにして存在なるのか。」
という、真実の探求に望まれました。

 唐に渡られたお大師さまは、恵果和尚(けいかかしょう)(七四六~八〇五)という師に遇うやいなや、
「あなたをずっと待っていましたよ」と、
恵果和尚にみちびかれます。

 胎蔵海会(たいぞうかいえ)曼荼羅(まんだら)と、
金剛界会(こんごうかいえ)の曼荼羅 等の秘密(真実)をさずかり、
それは広大な広大な世界を()り、体得され、
それは海の(しずく)の数量にも比べることができない世界、
細分化された表現、秘密(真実)の世界があるのだ。

お経に、
菩提(ぼだい)とは何かと問われるならば、いわく、
 (じつ)(ごと)自心(じしん)()る」というが、
*菩提…覺・智・さとり・道。 無上(むじょう)正覚(しょうがく)

これも同じく浅い深いの竪の意味と、
数の多さや広さを示す横の意味と・・・。
そうじてその無量を察せよということなのだが、
竪と横とは何かということを
お経から、また分けて示せば、

心続生(しんぞくしょう)(そう)諸仏(しょぶつ)大秘密(だいひみつ)なり。
われ(いま)ことごとく開示(かいじ)す」、
というのが竪の説。

いま見える自分の心、
どうしようもないところから、その真実の境地、覺、菩提まで、
どれもこれもつつみこみ、生かす、諸仏の大秘密。

次に横の説とは、
三藐三菩提(さんみゃくさんぼだい)のそれを知り求めるものは、
心の無量(むりょう)を知ることによって、身の無量を知る。
身の無量を知るによって、智の無量を知る。
智の無量を知るによって、すなわち衆生(しゅじょう)の無量を知る。
衆生の無量を知るによってすなわち虚空(こくう)の無量を知る」。
*三藐三菩提…菩提に同じ。覺・智・さとり・道。
*衆生…六道(ろくどう)(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)の輪廻(りんね)する、いのちある全てのもの。
*虚空…何にもはばかられず一切を包む空間。

衆生の自心というのはその数無量なのです。
限定されたものにとらわれず、
本当の数無量を知り、
無量の心識と、
無量の身等に気付いていく。
そこに行きつくならば、なんということか。

お経にはまた、
そのような私自身のもつ、また内在されるとも、包まれるとも、一致されるともいえる、

「身心のいきつくばしょ(究竟(くきょう))を知るには、
秘密荘厳(ひみつしょうごん)住処(じゅうしょ)(しょう)するなり。」

また、
「もし大覚世尊(だいかくせそん)大智潅頂地(だいちかんじょうち)に入ることができたならば、
みずから(げん)三三昧耶(さんさんまや)()(じゅう)す」と説かれる。


 心はどこにあるのか。
という話から始まったのですが、

お大師さまのさとりの教えに入っていけば、
心だけでなく、身心をふくめた
わたしの全存在のいきつくばしょ。
また、
もとよりあるすがた。
また、
ほんらいのかがやく、曼荼羅の
いかしあい。そのものに入っていくことができるのです…。

 お大師さまの教えとすれば、

我々、未熟な者(凡夫(ぼんぷ))は、自力では真実をとうてい見ることができない。
だからこそ毘盧遮那如来(びるしゃなにょらい)大日如来(だいにちにょらい))の加持(かじ)を受けなければならないのだ…と。
如来(にょらい)加持(かじ)を得て、
私のからだの在処(ありか)
こころの存在(そんざい)
ことばの行きさき、

その真実の義を知るときは、
すなわち一切の罪は滅し、すべてを知る(一切智(いっさいち))を得るのだ。と…。


 今月は少し難しくなってしまいましたが、
お経の一節をたくさん引用しています。
ですから声に出して読まれるだけでも功徳があります。

何度か声に出して読んでみてください。 

合掌

   平成25年12月21日 南無大師遍照金剛ありがとうございます。     


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