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「方丈~ほうじょう~」 | ||
昨年11月、宥善が正和に住職を譲られました。 よって正和も院代という肩書きでは無くなりました。 弘元寺第三代住職 正和はこれより先、「方丈さん」と呼び親しんでほしいと希望しております。 さて、方丈とは何でありましょう。お寺の主管者のことを住持職(じゅうじしょく)といいます。 世間ではそれを略して住職と呼び、その住職のふだん居る部屋(居室)を方丈と呼んだりします。 『維摩経(ゆいまきょう)』というお経の中に出てくる主人公、維摩居士(ゆいまこじ)は※1 一般人のようにしながらも仏の眼を開いた聖者であり、だれも維摩(ゆいま)にまさる問答をえなかった。 その開眼(かいげん)の維摩の居室も一丈(約3m)四方の方丈でありました。 『維摩経』の中で、 維摩居士(ゆいまこじ)とゆいいつ、対等に問答をした文殊菩薩(もんじゅぼさつ)との場面、 ちょっと現代的に意訳しますと以下のような一文があります。 歩いていると止まっている、 起きていると寝ている、 甘いと辛い、 あなたと私。 これらは普通の感覚でみれば 反対のもの、別のものになります。 でも真理に立ち返れば、それらは全て分けられるものでなくなる 般若心経の核である「空(くう)」、そこに「さとり」の世界がある。 だけれども、ひとことで空といってもよく分からないので 維摩は現実的な、人間の生きている世の中から深いものを読み取り、そこから真実を説きました。 生まれること、滅すること(生滅)。 よごれていること、きれいなこと(垢浄)。 好ましいもの、好ましくないこと(善不善)。 煩悩のあること、煩悩のないもの(有漏無漏)。 智恵のない世界にいること、智恵のある世界にいること(世間出世間)。 我があること、我というものなど無いということ(我無我)。 生まれ死に生まれ死にをくりかえす輪廻の世界にいること、智恵を得てくりかえしの世界から脱したやすらぎとさとりの境地にいくこと(生死涅槃)。 眼耳鼻舌身意にまどわされていること、惑わされるものがないこと(煩悩菩提)。 これらはみな別のようですが、本来もともと二つに分かれたものでなく、一つのものである。 これを、 「不二の教え(不二法門(ふにほうもん))」といいます。 本来の性質(本性)を観察したならば、 生死と涅槃、煩悩と菩提、迷いも苦しみも真理の会得(悟り)も 生まれることもなく、滅することもない。 つまりあなたが眠りから覚めても、起きているところから眠りに入っても あなたというものがあるように、 わたしとあなたも男も女も生き物というくくりにできるように、 いかなるものも本性にたちかえれば分かれたものではなくなるということです。 では不二法門に入るにはどうすれば良いのかという問に対して文殊菩薩は言いました。 「すべてのことについて、言葉もなく。説明もなく。指示もなく。意識することもなく。 すべての相互の問答を離れ、超えているとなる。これを本当に不二法門に入るとするのだ」と。 ついで、維摩が自分の見解を答える順番となります。 維摩はどうしたのか。 「何も語らず、黙った。」 維摩居士は、 その日、その時に、自分の居す所において 合掌し、礼拝した。 そして、そのまま静かに煩悩の眼を閉じて、秘密の観法に坐った。 すると、たちまちに秘密に荘厳された※2 仏の世界が居士の瞑想による開かれた眼(仏眼(ぶつげん))によって顕れた。 この時に維摩居士と文殊菩薩の問答が行われていた四畳半という小さな部屋の中に、 六十八億 由旬(ゆじゅん)という大きさの如来の座がすっぽりと入り現れます※3。 これは、私たちの惑わしの眼と知識では理解のできないところです。 深い観法のなかで開かれる「さとりの眼(仏眼(ぶつげん))」をもってしなければ分かりません。 おなじく、お経も 仏道修行者の悟られた内容を表現しているので、 その真実意を知ろうとすれば、 それぞれ自分自身の霊的な発達の程度ずつしかその内容を理解できません。 維摩居士はふつうの暮らしをしながらも仏教に深く 帰依(きえ)し、 方丈(四畳半)の部屋の中で 深い覚悟と、瞑想をもって 仏の世界を現し、真実を説かれました。 「方丈(ほうじょう)」とは、 このような祈りの意味(場所)をもっているものです。 これからも「正和方丈さん」をよろしくお願い致します。 合掌 副住職 泰教 平成二十五年三月吉日 日切大師弘元寺 ※1 居士…出家した僧侶では無いが、仏教に深く帰依した生活を送っている男子をさす言葉。 ※2 秘密荘厳…深く精密に整ったもので飾られた。 ※3 1由旬(ゆじゅん)が約7㎞。つまり476億㎞の大きさ。須弥燈王如来の師子座(椅子)が現れた。 (この大きさについては経典により諸説あります。) |
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平成25年3月21日 南無大師遍照金剛ありがとうございます。 |