「心の扉をひらく」 隨求護摩修行(大隨求明王菩薩 大護摩供) 結願 | ||
去る四月三十日、隨求菩薩ずいぐぼさつさまを中心として、 聖天様、十二天様の供養を加え、長時間の護摩を焚き、滅罪と追善の供養会を無事に営むことができました。 ありがとうございました。 罪を滅する、滅罪(めつざい)の功徳というのは本当に深く意義のあること、 また「供養をする」というのは実に難しいものである事だと身をもって改めて知りました。 (↑前修行中の写真《修行道場》) 結願の後、参詣された方の中から 「何もいらないのですね。このまま、そのままで、本当はありがたいのですね」 と心満ち足りた表情で感想を述べられたのを思い出します。 何年も不自由であった体が自由が利くようになられた方、身近な所から急に環境がよくなったと言われる方、ご利益がありましたという沢山の声を聞きます。 隨求菩薩さまの功徳は量り知れません。 もっともご縁に出会えただけでも素晴らしいことでしょう。 密教のお祈りとの縁は今生きている人生だけに留まらず、魂に語りかけるものですから、来世にも、過去にも響きます。 「気付けること」の有り難さ、「このまま、そのままで、すべてに感謝できること」を知ることのできた方、それは紛れもなく仏さまのお陰に思います。 そしてまた自らお祈りの場に出向き、一所懸命に拝んだ自分の修行の功徳力にも他なりません。 修行は苦しい事と捉えられがちですが、 要はただ自分を本当に見つめ、真実に気付くことが目的です。(4/21護摩) 生まれてきた意味、生きている理由、時に人は色々なことに悩み、考えるものでしょう。 悩みをもつ方に私はよく言います。目の前の苦しみや、つらいことだけ目に映っていませんか? 都合の良いところだけ受け入れて、都合の悪いこと、受け入れがたいことからは目を背け、逃げてはいませんか? 仏教は、そのままを見つめることが大事なのですよ。 ある方にはこのように言いました。いま何に感謝できていますか? そして何にはまだ感謝ができないですか?その自分の心を知る所からですね。 こういう時、私は神聖な神社や、お寺に行くことというのは、一つには人の心ばかりか体調や環境までも整える場所でもあるのだなって思うのです。 見失ったり、固くこんがらがってしまった心を神さま仏さまが優しくほどいて下さる。 抱えこんだつらいことも、悩みも、いつのまにか取り除いてくれる。そしてね、縁があったら、お坊さんに仏さまの道を聞くのも大事。 真言宗の教えならば、仏さまは自分の心の内にあることを教えてくれます。 つまりは「自分の心の扉を開く」方法を知ることに他なりません。 そして仏さまをお手本とし、仏さまになることを目的として修行しますから、心から優しくなれるし、智恵、勇気、知る力、努力する力(精進の力)が少しずつ備わる。 特にね、やっぱり仏教、仏さまの教えに信心する、信じる心を備えるという、その凄さというのは「気付ける喜び」に出会えることだと思います。 そして人間関係に限らず、生きている内に起こるすべての出来事、そして自分の心、 また私たちを包む自然、そしてその脅威、何でも、かんでも、そのまま受け入れて、 その奥にある真実に気付こう、気付きましょうよ、という積極的な教えが真言宗にあること。 これは本当に凄いことだなぁって思うのです。 この「奥にある真実に気付く」という言葉、とても大事なことだと私は思っています。 そして実はこの言葉、高野山の松長有慶座主が先日言われていた事でもあります。 ミャンマー国八僧の内の一人で三蔵法師と呼ばれる称号を得ているエンダパラという高僧が来日され、 五月十六日、高野山の松長有慶座主を表敬訪問するという事となり、私はあるご縁から案内役を受けました。 日本政府が初めて公式に認める仏教交流であるという事もあり、外務省からも一人、通訳役として駆け付けられました。 いつも私は非常に意義深い縁に出会うことが多い。ありがたいことです。 そこでエンダパラ僧侶は 「私たちの仏教(テーラワーダ/上座部仏教)と日本の仏教(大乗仏教)は色々違う所があると思いますが、真言宗の教えというのはどのような教えなのですか」 と座主に質問されました。 座主は 「私たちも最終的には涅槃(さとりの境地)に行き着くために修行します。 そして真言密教では、現実の世界の本当のすがたに目覚めよ、という事を先ず初めに言います。 また現実世界の動物、植物、すべて、は一定の価値をもって存在していてる。 その本当のよい所を見つけ、それぞれが生かし合いながら平和に暮らしていくという社会生活を目指しています。 また僧侶というのは、その段階に行くまでに様々な修行を積みます…」 と応えられました。 まさに相互供養(そうごくよう)、互いに互いを生かし合う世界であり、マンダラの世界であるなと私はふと思いました。 仏さまがいっぱいに描かれた絵がありますよね、それが曼荼羅(マンダラ)というやつです。 真言宗が大切にしている金剛界、胎蔵(界)というのは、どちらも中心に大日如来(だいにちにょらい)という仏さまがいらっしゃいます。 また不思議なことに、仏さまの世界を描いているのに一番外側には悪いこと、困ったことをするものも描かれている。 でもそれを含めて仏の真実の世界だと言うのです。 不思議でしょう。でもすごく、それはね、現実であるし、私が仏の慈悲と智恵の深さを感じる所でもあります。 また同じく、仏の慈悲の心から沸き起こる、積極性に非常に圧倒される所でもあります。 尚且つ、その目に映る世界を越えて、本質とは何なのか、 それに気付いて欲しいと訴えかけている所には仏さまの存在そのもののに、またその曼荼羅を描いた先人の威徳に、心を打たれます。 言葉だけでは表現しきれないものがそこにはある。 曼荼羅は現実世界を映し出すと同時に、一人の人間の心そのものも映し出している。 中心に座る完成された智恵と慈悲を備えた大日如来と、煩悩に迷う外側にいるもの、 自分がそのどちら側に近いのか、測るようなものではありませんが、間違い無くすべての存在は大日如来の心(本質)を備えていますから、 それに気付き、近づける生活を送って欲しいものだと思います。 人間関係、環境、自分の心…、そのまま受け入れる、その奥にある真実に気付くということ。 大変なことですよね。でもそれは正しくいなければならないとか、強くなければならないという事ではありません。 自分の弱さも認めてあげるということです。辛かったら辛いと正直になる、そのまま受け入れるということです。 受け入れる、認めるというのは非常に難しいことであるけれども、実はそれこそが自分をしあわせにすることですし、心をやさしくさせるものです。 他人にもやさしくなれます。これは良いとかこれは悪いとかそのような価値判断を越えたところに真実が垣間見える。 こころがいつも安定しない、揺れ動く状態から、いつも穏やかでまんまるい心、そのような心から導き出されるもの、想像しただけでも本当のしあわせがありそうでしょう?!。 仏教というのは真実をみる智恵を手に入れることです。 そして仏さまというのは、お手本であり、導いて下さる者であり、弱い人の心をそっと支え、ぶれないよう、心が折れないよう、いつも寄り添って下さっている存在だと私は感じています。 かんしゃ。 |
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日切大師弘元寺 平成廿三年五月廿一日 南無大師遍照金剛ありがとうございます。 |