生きているんじゃない。生かされているんだ。
 
 今年はいつもより寒くなるのが早い。毎年秋には「暑さ寒さも彼岸まで…」と話をするのですが、「今年は既に寒うございますね。」と調子が違ったものです。

 ふと気付くのは、同じ事の繰り返しをあいも変わらず行っている自分です。同じように一日が過ぎ、一日が終わり、四季が迴るのを見つめて、年を一つ取っては同じ四季をまた見つめ、時が過ぎていく。あっという間に時は流れていきます。注意していようが、ぼーっとしていようが、時間は待ってくれません。大人になったら・・・、十年後には・・・、と思いを巡らせていたのも束の間、私たちは幼き自分が思い描いた想像の自分となっているでしょうか。人はあっという間に年を取っていきます。限られた人生、素晴らしいと自分自身が思え、満足感謝するものとしたいものです。

 ある方が、色々私はしてきましたが、いや、やってきたつもりでしたが、実際はなんにもない自分、何にも気付いていなかった、気付いたつもりでいた事に最近気付きましたとお話下さいました。身に付いたものもなく、支えとなるものもない、確実なものが何も無い。あるのは、至らなく、身勝手で他人を本当に大事にしてこれなかった自分だけだとおっしゃいました。そんな自分を見つめれば見つめる程、もう死ぬしかないじゃないか、と自分を追い込むこともあるのだと言われます。すべてが当たり前で、当たり前では無いのだけれど当たり前だと思い、生活することも、周りで支えてくれている家族も、親も友人もすべてが当たり前だと勘違いし、今まで本当に大事なことに気付かずに来た自分がどうしようもなく情けない・・・と。おまけに注意してくれる人も沢山いたのに、それを聞けなかった自分・・・。言葉に表現できない思いに駆られますと。

 人は自分に自信を無くした時、道を切り開く勇気が無くなり、何も出来なくなってしまいます。どこを向いても良いアイディアは浮かばず、希望も見出せない。でも日は昇り、沈んで行く。何かしなければと焦って働いても、心は満たされぬ事なく、報われず…。本当にそのようであったら誰であってもすべてが嫌になってしまいます。しかしながら報われる事を初めから望んでいてはいけません。人間誰しも、悪業を積んでおり、人生のどこかで精算しなければなりません。生きていれば、時にはじっと耐え、辛抱することも必要です。人生幸福だらけ、そのような人は前世でよほど修行されたか、今世においても、当たり前を当たり前と思わず、感謝感謝と過ごされている方でありましょう。

 私たちは間違いなく生かされています。「生きている」のでは無く、様々な自然の恵み、恩恵に預かり、また親、先祖にこの体を頂き、「生かされて」います。皆、何も無いから生きているのです。すべてが整っていれば既に仏さまとなっている事でしょう。足らない、分かっていない、気付いていないと分かっているだけ偉いものです。一歩一歩と歩んでいきましょう。人生ずっと手探りだからこそ、生かされていることに気付き、感謝の生活に生きなければなりません。そして自分の内に仏があることにも気付けたならば無限に広がる可能性にも気付くことができることでしょう。

   合掌

  日切大師弘元寺 平成廿一年九月廿一日 南無大師遍照金剛ありがとうございます。     


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