「仏さまに導かれ」 | ||
仏さまにお祈りをしていると、なんだか心が裸になり、すっとする。 この世に生まれるよりも前にいた場所に戻るのだから、死後の世界に行くのでは無く、「帰る」という。私たちは仏さまの世界に帰る。ある人は神さまの世界と感じるかもしれないが、とにかく皆、もとの世界に帰る。ただ、その時に自分がどのような姿で帰るのかは分からない。何故なら、今のあなたの生き方がそれを作っていくのだから。 ある人は、死ねば「無」だという。確かにこの世の人間から見れば「無」だろう、と共感する。しかし、仏の永遠の命を知る人は肉体を離れた後、自ずと仏の世界を感じるだろう。うつくしい世界が一面に広がり、妙なる音楽や仏の歓喜の歌声やお言葉が永続的に流れている感じを受けるのかもしれない。それが極楽なのだろうと感じる。それは、とてもすっきりとした、おおきく、やわらかく、流動的で、細やかで、なお且つ偉大な世界なのでしょう。 今月お話するのは「自分に迷わない生き方」と「神さま仏さまの世界にふれる」というものです。人は誰しも悩みます。また中には、何に悩んでいるかも分からないが、ただただ悩みの淵に落ち込んでしまう人もいます。そしてそういった人は仏さまの前に座ったときによく涙を流す・・・。何故、涙が溢れるのか。神さま仏さまの聖なる空間は、私たちの重い荷物をすべて降ろして下さるからです。体が軽くなって、なんだか泣きたくなるのです。きっと涙と一緒に心の奥底から、掃除をしているのかもしれませんね。それはとても良いことだと思います。 また、逆に空虚な気持ちになって、どうして良いか分からなくなり、不安になる事もあるかもしれません。それは人間という生き物が、良くも悪くも背中に荷物を詰め込みながら生きていくものであるからです。今までの自分を悩ませる重荷であったものでも、自分の一部ですから、その自分の一部が剥ぎ取られてしまう感覚に不安が湧くのです。 神さま仏さまの前では誰しもが裸の自分になる。今まで裸の心(自分)を見つめた事がなければ、不安になってしまうのは当然です。でも、大事であるのは、それが重荷をすべて降ろした「自然な自分」だという事を自覚することです。そこから何を見つめ、何を発見するかです。自然な自分は、いらない詮索や悩みの種を降ろした状態です。ですから、普段よりも目に映るものが美しく輝いて見えてくることでしょう。また素直にもなれるでしょう。それが自分にも他人にもやさしくなれる一歩となれば、より良いものです。 |
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日切大師弘元寺 平成十九年十月廿一日 南無大師遍照金剛ありがとうございます。 |