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死によって私たちは生きている
 
「死によって私たちは生きている」

 生まれた瞬間に死を抱いている。それが人である。そして人は多く老いて、また病に伏せて死を迎えるのであるが、それが死の原因であると皆思っている。

冒頭に述べたように、人は老病によって死を迎えるのでは無い。
生まれたことによって死をもとから迎えているのだ。
老いや病によって、初めて死に向き合う人が多いが、あなたがこの世の生命となった瞬間に死と出遭っているのだ。死のみは特別なことではなく、また特別な生と共に特別な死である。

 むつかしいような、当たり前のようなことを言うが、死だけに向き合うとそれは本当のことでありながら、同時にまやかしのようなものであると私は思う。
人間の集中力についてこのように言うもので、人は1つの作業をするのに集中すればするほど確かな物を作り上げることができる。しかし同時に目の前の作業以外に集中することはできない。言い換えれば集中するとは懐中電灯を当てるようなものである。
電灯は暗闇を照らし、見えなかった部分を明るくする。しかしそれは一部分にだけ有効なものであって、全体を見るような仕組みにはなっていない。
集中することは大事だが、時に使い場所を誤ると途端に周りが見えなくなってしまう。日常生活でもそのことで周囲に迷惑をかけてしまった。そのような記憶が皆様にもないでしょうか。

 死に向き合う場面では殊にそれと同じことが起きると感じる。本人もまた周囲の人間も同様、自分の思いのみに集中する。手放せないものが多く、お任せしようなどとはなかなか思えない。執着である。 また家族葬が増えて、親しかった故人の旅路に駆けつけたかったが遺族の意向で足を運べなかった。最後にあの人の顔を見たかった。数年を経て、やっと墓や位牌に手を合わせられた・・・という話も近年多い。

 死はそこですべてが消え失せるわけではない。生まれた瞬間に死と共にあるように、死の瞬間も生と共にあるのだ。つまりその人間の人生すべてと共に死を弔うのが筋というものである。私の懐中電灯がどこを照らしているのか今一度確かめるべきである。

 また死を迎える人間も意識すべきであろう。目の前にあるのは死だけだ。しかし同時にそれは私の親が、わたしを宿し、そして産み、多くの人がわたしを育て、また助けてくれた。その上で死が訪れているのだ。あなたがどこに意識を向けているのか。
それに隨い見える世界も死後の世界も変わってくるものだ。
そして、それは死の直前まで言えるものである。人は死の直前まで学ぶことができ、気付きと、精神の成長を獲得し続けられるように出来ている。いくらお金を儲けてもあの世には持っては行けない、というが精神性はどうやらそのまま、次の世に持って行くようである。
だからこそ、日常でも「感じ」「思う」こと「気付くこと」。これが大事なことなのだと同時に思い知らされるのである。来世はある。

 いやしかし心の向け方が分からないんだよ、といわれる方は、集中力の問題ではなく、集中しないリラックスの仕方に問題があったり、安心を得ること、これは正しい信心に依ること、許せるちからであるとか、尊いものへの帰依、心からの懺悔など、仏教によれば処方箋はさまざまある。

 意志が固い。頑固者。上記は意味が違うので一緒くたにするものではないが、身心一如(二つに分かれない)、体が強張りギシギシであったら押したり伸ばしたり緩めていくように、心も同様である。

何を言っても変わらないならば、相手の幸いを思うだけでいい。気が済まないならば神仏と共に祈るのがいい。 また誰もがそうであるが、脳(惰性)に支配されているならば呼吸に意識を向けるのがいい。多くの修行者はそうしてきた。 呼吸が止まりそうならば、あの世や来世の幸福を祈り瞑想するのもいい。ちなみに美しいあの世は小さな己の欲や怒りで自他を隔てない世界である。 精神性は来世に持ち越すものだ。肉体は滅びても精神性は消え失せない。

 日本人は、この世の倫理観は世界でも優れているが、この世に通じるだけの倫理観のみであって、あの世にまで通じる観念を近代忘れ去ってしまったようだ。もうすぐお盆を迎える。自分の先祖だけで無く、ひろく諸霊の廻向、作善をおこなって欲しい。他者が喜ぶことを何か一つ。始めることから。 合掌




   平成30年7月21日 南無大師遍照金剛ありがとうございます。     


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