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  「信仰をする」とは何なのか
   
 − 朝の冥想 〜 今日も生きている を知る 所作 〜 −

 朝、目覚めて仏の前に座し、己を虚空しくする。(己をむなしくします)
昨日までの全てをリセットするかのように、今日、一瞬一瞬、新しい自分が始まりいく。

(まなこ)半目(はんもく)にして、
仏との等身大を観想(かんそう)すれば、

全身の細胞が目覚め、

全ての毛穴という毛穴
(仏教用語で毛孔(もうく)という)
から電流のようなエネルギーが(ほとばし)る。

天文物理学的な時間や空間、また縛り(執着)の世界を越えた、
宇宙そのものである目映(まばゆ)い「大日如来(だいにちにょらい)」という仏がいる。

その仏より出生(しゅっしょう)される、
様々な仏たちからなる曼荼羅(まんだら)をまた観想し、
仏の世界に身を置いてはそこに遊ぶ。

ある修行者(僧侶)は、寝る前に曼荼羅の前に立ち、観想し、
いまの自分は曼荼羅のどこにいるのかを確認してから眠るのだという。
私はそれを聞いて、
「あぁ、すばらしいなぁ。見習わなければならないな」と感心する。

真言密教(しんごんみっきょう)は、教えを隠し(秘密にし)ているから「密」であるのでは無く、
あまりに教えが深い故に「密」なのである。

そして、人間と仏、
凡夫
(ぼんぷ)と聖(せい
)は、
遠くかけ離れた存在では無く、
凡聖(ぼんしょう)は本来いつも平等にあるものなのである。

「合掌」とは、本来のありのままの自分を知る
(探す、立ち返る)という、一つの
「生きることを知るための行為、所作」。

つまり、手を合わすのは「きる所作(しょさ)」なのである。



 
  − 家庭の中でしかできない教育もある −

最近は、
 「一家の人数を教えてください」と、
このような質問をした時、
一緒に暮らしていない親や子を数えない人が多い。

家を継いでいく者は、
離れて暮らしていても、親、子、孫等、
みな同じ一家の一員であると心して生活して欲しいと思います。

一家の年長者の方々は、
それをよくよく自覚して欲しいと思います。
大切な事は、大切なようにするのがいい。

これも時代の流れ、と暗に誤魔化して、
後で苦労するのは子や孫達であるのですから。

例えばリレー競走。
バトンの意味はどのようなものでしょうか。

リレーではバトンを渡さなければ、次の走者は走る事ができない。
子や孫、子孫につなぐことは
自分のバトン(経験・智恵)をしっかりと手渡すことです。

 「誉められた人間」
という言葉に私たちは何を想像するでしょう。

義理人情に厚い。人を馬鹿にしない。思慮が深い。精神性が高い。
言った事は守り、必ず実行する。
誰にでも平等に礼を尽くす。
その他、人格を形成するとは何かを
想像して下さい。

車があっても免許(運転する能力)が無ければ動かせません。

財がいくらあっても、智恵(心)が無ければその財産を有効には使えない。

学校では教えられない事が沢山あります。

いよいよ、
家庭の中での教育を見直すことが必要な時代となってきました。

人は迷う生き物です。そしてその
迷いや執着が苦しみの原因ならば、
(いまし)めを持って生きる者
持戒者じかいしゃ)、
また修行に励む僧侶に話を聞く、教えを聞くことも、
これからの時代、
それはとても大切な事となってくるでしょう。

学生が先生に質問するのと同じです。
自分の心の真実を観る方法、第一歩目を教わってみましょう。
目の前に広がる世界が一瞬で変わりいくことでしょう。



  − 社会に生きる人々の誤解 混迷 −

 「信仰は心の弱い奴がするものだ。」
 「信仰をしている奴にろくな奴はいない。」
これは全くもって、戦後の僧侶(お坊さん)の怠慢が招いた結果でしょう。

僧侶は正しい事(人が生きる意味、
人が生きる上で守らなければならないこと、大切にすべきこと)を
世間の人に十分に伝えてこれなかった。

また今の日本には金儲けの為のビジネス宗教、
権力と政治の為の宗教が多くなっているのも事実です。
気をつけてください。
そして何事においてもそうですが、
本物を見定めるにはそのものを
まずはよく知っておかねば、とうてい見極められません。

たしざんの算数も知らないのに、掛け算、
はたまた、方程式など解けるはずもありません。

すべての人に共通する
「心」と「精神」に関わる事なのだから、
信仰とは何かという事を知っておくと良いと思います。

また世界人口の八五%以上が何らかの信仰を持っていると言います。
宗教を離れ、宗教を知らずして世界のこと、人々を知ることはできません。

そして仏教を知ることは、
自分自身は勿論のこと、
世の中を本当により良くしていく事にもつながります。

日本人なら
「日本の八百万(やおよろず)の神」のこと、
「仏教」のことを少しでも学んでおいた方が良いでしょう。

日本文化を語る上で、
神仏
(しんぶつ)
知らずして日本は語れませんし、
日本人としての文化的な振る舞いなどもできません。

 さて、
「信仰は心の弱い奴がするものだ」というが、私は
「目に見えないものに心を向けることもできず、
目に見えるだけのこと、目先しか見えぬ生き方をしている者の方がよっぽど危険である」と伝えます。

「信仰をしている奴にろくな奴はいない」には、
「右に言ったようなおかしな宗教がはびこっているからである。
しかし、その宗教こそが宗教であると思い、
誤解して生きているこの社会、状況こそ、
もっとも危うい状態ではないだろうか」と思います。

普通だと思っている環境が、実は普通ではない。
つまり異常な環境が普通にまかり通っている状態に、
大多数の人は気付けなくなります。

「宗教は怪しい」
というのが普通の状態であることは、
おかしな宗教、まがいものが日本に蔓延しているという事です。

またもしかすると、あなたが
そのようなものしか引き寄せないループ
因縁(いんねん)の輪)の中に(なず)んでいるからかもしれません。
すばらしい僧侶(宗教者)は、実は各地に山ほどいるのに・・・。


つまり信仰に対して誤解を生んでいるという環境に到っている、
この現状こそが一番危険な状態であるのに、
それ(自分がこの環境に到っていること、留まっていること)に対しては
何の危機感も感じない。
いま社会全体を通して、人々は麻痺をしている状態に陥っているとも見て取れます。


仏教は仏となる、覚りをえる、解脱をすることが目的です。

本来、宗教というのは尊い精神を育み、
自己発見の連続の場であるのが本物です。

西洋では叡智(えいち)の結晶といいます。

ただ、社会を冷静に見れば、
真理を全て理解した、
私は凄いから不思議な力を得た
と、浅はかにも信じて、
その屈折した解釈で他者を、
また自分を傷付けているという姿が時折みえます。

さとりを求めない僧侶、
子に愛情を注ぎきれない親、
親に感謝をしきれない子、
愛を憎しみに変え続ける宗教。

すぐれた考え、教えは
師が弟子に正しく伝え渡さなければならない。

家族の中でも同じでしょう。

父母は子へ、祖父母は孫へ。
バトンはしっかり渡さなければ、次の走者は走れない。

日本人が精神文化に優れていると言われるのは、
家、親、子、孫を大切にし、代々バトンを渡してきたからでしょう。

今は皆、自分の自由気ままです。
家族であっても、一緒にいたら気が苦しい、と譲る気持ちの欠片もない。
皆お互い様に、同じように、いつまで経っても未熟なのです。
人はみな完璧ではありませんし、完璧な人がいたら不自然です。

スポーツでも芸術でも、
努力無しに成し遂げられるものなど何一つありません。

オリンピックにみるように、最高の喜びというのは努力し、
苦しみがあっても堪え忍び、
それを乗り越えた結果にしか、味わうことはできないのです。

よく、本当を見つめる力、心を育てましょう。
難しく考え過ぎず、心を込めましょう。

子や孫のことを本当に想う所から始めましょう。
周囲の人のことを思いやる気持ち、大切にしましょう。
自分なりに始めましょう。

この思いやる気持ちが、慈悲のこころ。 仏さまの第一の特徴です。

祈りとは
まず、人を思いやる心(慈悲心じひしん)を己自身に発見し、育む所から始められます。


  平成24年8月21日 南無大師遍照金剛ありがとうございます。     

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