「本初に帰る 〜隨求ずいぐさま〜」
 
 隨求さまの功徳の第一は「滅罪(めつざい)」。 そして「追善(ついぜん)」です。

 この度、大震災で多くの方々が亡くなられました。
もともと この春は、二度目となる
不動明王を本尊とする「焼八千枚護摩」を予定していたのですが、
八千枚護摩を中止し、
隨求さまを本尊として、
皆さまと一緒に供養をしようと私が決心したのは、
この仏さまの「滅罪と追善」の功徳が計り知れない という所が大きな理由です。

 ○隨求菩薩ずいぐぼさつさまの功徳について

隨求菩薩は大隨求陀羅尼
(だいずいぐだらに)そのものであり、
この菩薩の真言、陀羅尼をとなえ、聞き、或いは身に付けるだけで
全ての悪い因縁が消滅し、様々なご利益をいただくことができます。
災難や悪因縁、悪霊をさけてたくさんの神仏が守ってくださいます。
心に思う大切な願い事や、建康、安産なども叶います。
そして最大のご利益は、地獄に堕ちるような人でも、
必ず 仏さまのいる世界に 生まれ変わることができる ということです。
大随求菩薩は この世もあの世も貫く、 計り知れない功徳があるのです。

○隨求さまのご縁に際して

還帰本初(げんきほんしょ) 原点に返ることの大切さ」
  〜もとの初めに もどり帰る〜

 本初とは字の如く「はじめ」のことです。
簡単に言えば「もとの初めに帰りましょう、原点に戻りましょう」ということです。
学び始めた当時の心、未熟さ、経験を忘れてはならない、
常に志した時の意気込みと謙虚さをもって事に臨まなければならない、
「初心忘るべからず」の言葉に似ています。

「傲慢になっていた心を反省し」、「謙虚な気持ち」、「感謝のこころ」を取り戻さねばなりません。

 真言密教の世界に一歩踏み込めば(ちょっと難しい言葉になりますが)、
本初(ほんしょ)」とは
諸法(しょほう)本源(ほんげん)
阿字本来不生不滅(あじ ほんらい ふしょう ふめつ)の真理世界、本来清浄法界を意味します。
大日如来の本来のとても浄らかなさとりの心そのもの、と考えてもらったら良いでしょう。

 お大師さまはこのように詠われています。
阿字(あじ)()が 阿字の古里(ふるさと)立出(たちい)でて (また)立返(たちかえ)る 阿字の古里」

 密教では、すべてのものは不生不滅(生まれることもなく、滅することもない)であり、その真理を体得することが、さとりの境地にたどりつく根本であるとします。
阿字の子とは、すべての生きとし生けるもののことです。
真実の仏の子である衆生(しゅじょう)が、仏の世界を立ちいでて、またその仏の真実の世界にかえる。そのようなものなのだ、と詠まれている訳です。

 分かりやすく言えば、大日如来の本来のとても浄らかな、さとりの心、そのものにかえり、目覚めることが、私たちにとって大切なことであり、究極的な目的なのです。
私たちは精神の奥底に、仏の真実、大日如来の本来のとても浄らかな、さとりの心をもとより備えているのですから。

 さて、隨求さまの功徳は上に書いている通りであり、さまざまな願いを叶えて下さるのですが、
今ある自分の願い、思いは本当のものなのでしょうか。
本当に自分が心から望んでいる願いごとなのでしょうか。

 いま思う願いが叶えば、きっと嬉しいことでしょう。
でも、よく考えてみて下さい。喜びはあるでしょうが、心から満たされるような深い喜びの伴ったお願いごとを心に思っているのでしょうか。
自分の心底、魂の奥深くから欲し、願っていることなのでしょうか。

 有難い仏さま、また密教の法に出会えるのだから、心の底から喜びが溢れるような、
魂の深い所で願っている、自分の魂が震えるような願いに繋がった、そんなお願いをして頂きたいなと思います。
そうすれば自然と、今まで忘れていたものへの気付きや、素直な心を思い出すのではないでしょうか。
 つまりは、曼荼羅の中心に座す大日如来の本来のとても浄らかなさとりの心につながることが大切なことです。
先ず簡単な心掛けは「そのような、大日如来の心を思うこと」と、
「すべての生きとし生ける衆生が心安らかに救われたなら、なんていいのだろう」と思うことが大事でしょう。

 隨求菩薩さまの功徳の第一は、「滅罪(めつざい)」です。 そして「追善(ついぜん)」の功徳です。

 では何故、隨求さまは「罪を滅する」ことを一番とするのでしょうか。
お経の中には、このように説かれる一節があります。
 「私は昔、果てしなく永い永い間、菩薩の修行をし、苦行もし、学びもしたのだが、さとりのしるしの一つさえも得られなかった。
それは何故だったのか。心が劣っていたからだ。
また残れる罪があったからだった。
懺謝が無かった故に、懺悔(さんげ)を尽くせていなかった故に、
今までに作ってきた諸々の障難にずっと引っ張られていたままだったのだ。
だから仏に成ることがずっとできなかった。
云々・・・。
仏を求めて、誓い、懺悔をするべきだ。」

 どのような宗教でも必ず見られることですが、つまり
懺悔をするというのが、先ずはとても大事なことなのだと言う訳です。
そして自分だけでの懺悔と悔い改めでは、時間が経てば、すぐにその心も揺るいでしまうので、
仏さまを求めてするのが良いのだと言います。
つまり過去世からの悪い癖をきれいさっぱりとしてしまおう ということです。

 懺悔に関してお経では、
「無辺の罪を懺悔して同じく法性空(ほっしょうくう)に帰す。」
すべての罪を懺悔して大日如来の本来の浄らかなこころ、阿字の妙理(みょうり世界)に帰ると言います。
懺悔をするというのはとても大切なことなのですね。

 ですから、隨求さまはこの世に生きる私たちにとって、とてもありがたい仏さまであるのです。
そして、隨求菩薩はすべての如来の心のつまった真言陀羅尼が姿形となって現れた仏さまでありますから、
その功徳は計り知れなく、その輝く光明はすべてを(あまね)く照らして、暗い闇を破ります。
 魂の迷いも、心の闇も、なんでもです。

 追善に功徳が深いと言われるのは罪を照らし消し、迷った魂を暗い闇から引き上げて下さるからです。
また実にはお墓に建てられる塔婆(とうば)においても、真言宗ではほぼ必ず隨求菩薩さまの印を梵字で書き込んでいます。
現代では、名前もあまり知られてはいませんが、隨求菩薩さまはそれくらい日常的に私たちを身近に救って下さっている仏さまなのです。

 その他、隨求さまの功徳をざっとあげますと、
産生安楽、子どもを産む母親、子どもの安全。子を授かる。
病気平癒。さまざまな難に合わない。悪を除く。
海難、水難、火難を除く。船の無事。虫や蛇の難を除く。
陀羅尼の功徳に遇えば作物、果物すべては豊かに成長し、味も甘美なものとなる。
陀羅尼を所持したり唱えたりすれば様々な仏や天、龍、一切から守護を受ける。
煩悩が消える。智恵を授かる。願いが叶う。
良縁を得る。福を得る力を授かる、等々あります。

 「本初に帰る」とは、自分の本当の心を知るという事でもあります。
 このありがたい隨求菩薩さまの功徳、ご縁にであえば、心の奥底から欲している願い、
大きな喜びを伴う自分の本来の相、心に気づけるのではないでしょうか。
それは各人にどのような形で現わされるかは分かりません。
しかし、今、○○したい、こうでありたい、というレベルのものでは無いことは確かです。
 深い、心の奥底に達し、大日如来の本来の本来の浄らかな心に、少しでも触れることができれば、少なくとも
「あぁ、すべてのものが幸せでありますように」と心から思えるようになることでしょう。

 「仏は是れ慈悲心」とも言いますから、自然とそうなることでしょう。

 先ずはそこに行き着くことが、真似でもいいのです、できれば、
深い感謝 と、こころ、魂のよろこびの伴う、願いというものが引き出されてくることでしょう。

 先ずは、隨求さま、仏さまを、そして功徳を、心から信じることです。
自身の本当の滅罪を願いましょう。
 そしてご先祖さまの追善と、東日本大震災に亡くなられた人々の命、動物、植物を始め、
すべてのものに向けて功徳が廻るよう拝みましょう。
 
 仏さまの心に出会う喜びと、深い気付きと、
皆さまそれぞれの願いが成就されますよう、
そしていつまでも感謝の心に溢れた願いに隨って、
皆さまの日々の生活が送られますことを心より願っております。

   合掌

  日切大師弘元寺 平成廿三年五月 南無大師遍照金剛ありがとうございます。     


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