「意識(心の鏡)を磨きましょう。」
 

※お寺の配布プリントでは、前文にあったものを最後に移動しています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


(問)自分という存在はなぜあるのか。
(答)自分の存在は、いつよりか始まった心の延長線上にある。
 またその自分の創りだし いく心の、
連続性の上にあぐらをかいて、 自分の相を形付け、 留めている。
そしてその自心のつくった自身を自身そのものと思い込み、
私たちは知らず知らずと暗闇におちいっている。
 中でもやっかいなのは、暗闇にいる事にも気付かないことである。
私たちは、自分たちが思っている以上に、
深く、何かしら尊いものとつながっている。
いや、それ以上に、
実体も無く、価値という概念を越えたものと、同一であることに気付かなければならない。
自分の心の内に真実相(もとよりのことわり)を
具足して(十分にそなえて)いることに気付くことが
自分の存在を明らかにする第一歩である。


分からぬから、目先の欲に飛びつき、
一時の楽しみに心を奪われ続け、
自分だけのこだわりに終始して、苦しみを自分から生み出している。

私たちはそんな存在のように思います。
定まらない心はいつまでも確かなるものを掴めず、不安が側より離れない。
欲に泥(なず)んだ心は
いつまでもこの世の実相(ありのまま)を
その心に映し出せず、心のふるさとに帰れない。

如来の智恵(このうえのないおしえ)を
強く求める求道心(ぶれぬこころ)はいつ起こるのだろうか。

真実相(じつなるありさま)を映しだす
自性清浄心(みずからのきよらかなこころ)はいつ芽生えるのだろうか。

すべてをありのままに映し出す、鏡のような心。
その心があれば、どのようなことも偏見無くうつしだされ、

他人の喜びにも同じように喜べる。
さまざまな人の心も、そのままを、
あるままに、
感じ取れることでしょう。

自分の心の鏡、それは
曇らぬように、よくよく磨かねばならないものです。

そしてそこに、いつも慈悲の心が咲いていたならば、
なんて美しいことでしょうか。


輝き、照らす、晴れやかな仏(大日如来)の
自性(ありのまま)を 自らの心に映し、
輝かせられれば、
この世に生きるのに
必要な智恵が自然と起こることでしょう。

こころに 仏を感じて、
こころに 智恵の光を観じて、

私のこころの内に宿る
 本来の輝きを見つけだしましょう。

すべての存在とは、存在を越えた所において、
もとより 共にあるという実相(ことわり)に気付いて欲しい。

そうすうればどうなるのかと言うと、
重ねて、欲をコントロールできる 自らの心をもってすれば、しなくてよい回り道をしなくなる。
また、物事って、以外と もっともっとシンプルなのだ
という事にもきっと気付くことでしょう。

いずれにせよ、自ら心を磨き、欲をコントロールできなければ、分からないことばかりです。

仏さまの心を自分の心に映し出すだとか、
なんとか、かんとか、いろいろ、難しいことばかり。
課題は次から次にあるものですが、実践しようと思えば、
これらは
密教を正しく継承する師に尋ねないと難しいことです。

しかし、自分の「欲」の原初(げんしょ)を尋ね求め、
観察し、それを断じる、コントロールするにはどうすれば良いのか、と
自分の心のありのままの相(すがた)を意識し、
心を静かにして、観察することはできます。
そう難しいことではありません。

大切なのはよくそれを教えてくれる師に出遭うことであったり、
それにともなう環境、心を静かにできるお寺、神社に参ることであったり、
慈悲の心を備えて、ものごとの本質に 挑もうとする心意気を持つことであると思います。

不安との戦いは、初めの一歩を踏み出せられるかどうかです。
自分の心に初めから、ちゃんとあるもの。
それを
心の鏡を磨いて映し出しましょう。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

※(前文)

 修行をする とは何なのか。弘法大師 空海。 お大師さまは、
山岳に修行し、真言を 限りなく 唱え続け、 また経典を学び、
師の 恵果阿闍梨(けいかあじゃり)に遇っては、密教(みっきょう)の秘法
(潅頂(かんじょう))を授かり、
この上無いさとりに目覚め、大日如来の自性(じしょう。ありのまま)の相(せかい)に入られました。

密教では、さとり(仏のこころそのもの)は、文字や言葉にできないとし、師から法(潅頂(かんじょう))を正しく授かる、プロセスを得るにおいてのみ 得られるとしています。
(勿論、お大師さまの教えの中において、真理は必ず文字にされるという面もあります。)

恵果和尚(けいかかしょう)とお大師さまの
師弟の関係を仏に置き換えると、
師が大日如来、教えを受ける弟子が金剛薩タ(こんごうさった) という仏様になります。

 大日如来とは
永遠不変であり、生まれることもなければ 滅することもなく、
この世の、宇宙を含めた全てでもあり、時間も空間をも
その域を超えていて、姿や形ももちろんのことありません。
それにも関わらず、すべての存在するもの、生命、物質、心に、本来より宿っています。
そしてその大日如来の本性(その一部)を言葉に表すならば、大いなる慈悲の心と言えるでしょう。

対して、煩悩を身にそなえながら、
金剛(こんごう。壊れること無く、ゆるぎない)の強き精神を持ち、
さとりを求め修行するのが金剛薩タ(こんごうさった)です。
煩悩をコントロールし、浄菩提心(きよらかなこころ)をあらわして、
大日如来の教えをそっくりそのまま自分の心に映します。

煩悩に塗(まみ)れた私たちも、
同じように金剛の強き精神をもって、
さとりを求める心を起こし、修行の実践者 第一である金剛薩タを見習わなければなりません。

そして即身成仏(このみにおいてさとる)を目指す密教において、
大日如来の自性(ありのまま)をそのまま体得しようとするならば、
この金剛薩タ(こんごうさった)になるより他に道はありません。

大日如来の自性(ありのまま)を、
無相(よるところなし)にして、
自分の心に映し出せた時、
そこには真実の智恵が備わっていて、
そのすべてが自然の理のところとなることでしょう。


  日切大師弘元寺 平成廿三年十月廿一日
南無大師遍照金剛ありがとうございます。
     


過去の法話へ