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 「ほとけの心を育む、廻向」
 
朝や夕方、また関わらずいつでもですが、
神さまや仏さまに向かいお祈りをする時、
私は、最後には特に、必ず、すべての命のしあわせをお祈りします。

まず丁寧にお辞儀をする。
そして、
日々の反省と心のクリーニングである懺悔(さんげ)をする。
次いで、
感謝をし、仏さま自身が立てていらっしゃるお誓い事の真似をする
(すべての命を救います。さとりに目覚めます等)。
そして、
お経や真言をお唱えし、最後に廻向(えこう)をする。

お供えものをする功徳、
お経の功徳、
真言を唱える力の功徳、
仏さまと心を一つにする功徳、
それらを他者に施し 廻らすことは重要なことです。

私はいつも最後のお祈りに、すべての命の幸いを念じます。
その祈りは実に心がすっとして、気持ちがいいものです。
最初から最後まで
すべてを許し、
すべての いのちの幸いを
心から願えるならばなんて素晴らしいことでしょうか。


仏さまと心を一つにしていく。
それは、無限の力と
可能性に目覚めることでもありますし、

すべての衆生(しゅじょう)を救いたいという
仏さまの誓いに自心が調和していくことでもあります。


上座部(じょうざぶ)仏教、
ミャンマー国の大長老は廻向についてこのようなお話をされていました。

昔ある王国でのこと、王様が僧侶を招き、盛大な供養を行った。
沢山の食べ物、布や服、それは大規模なものであった。
しかし僧は最後に廻向する事を忘れてしまう。
するとその夜、お城には沢山の幽霊が騷ぎ現れ、お城の者たちは眠れなかった。
翌日そのことをブッダ(お釈迦さま)に報告した所、
もう一度お供えものを用意して供養し、廻向をよくしなければならないと言われる。
王様はもう一度、供養祭を開き、最後にすべての命、衆生に廻向をしてもらい、その騒ぎは収まったという。
だから廻向はとても大事なのです、と
ミャンマー国第一位のウ・クマラビワンタ長老から直接そのようにお話しを伺いました。

そして昨日、20日は
その廻向を実践するべく、
宮城県の女川町立病院の供養塔前で
ミャンマー国の大長老が七名も一同に会し、
食べ物、服、布、灯明などお供えし、
一緒に供養をさせて頂き、皆で最後によくよく廻向しました。



 日頃行なっている私のお祈りの手順は、
まず頭に浮かぶ方の幸いを祈ります。
そして今まで出会った方、昨日出会った方、今日出会うだろう方、明日に出会うだろう方と祈りの功徳を廻らせます。

ポイントはみな平等にそれぞれの幸せと喜びが訪れますようにと祈ることだと私は思います。この人はあまり好きでは無いからと差別している間は半人前、いや半仏前とでも言いましょうか。
われわれは未熟なものです。

嫌いな人は
あなたにとって不都合な存在かもしれませんが、
一つの存在としてはあなたと何ら変わらぬ輝く命なのですから。
総じて、すべての命、すべての存在へ…と
自分のやさしい心を広げていきます。

このような思い、誓い、願い、を
常日頃からなす事、持つ事は、とても良い事だと思います。

特に仏の本質は慈悲とも言います。
如来や菩薩、観音、明王と様々な仏さまがいらっしゃいますが、
真言宗ではすべての仏さまの故郷である大日如来という仏さまを大切にします。

どの仏も本質をたどれば大日如来となります。常にすべての存在が救われるように活動している大日如来。その活動はこの世界を包むような力でありながら、同時に微細な原子レベルに於いても同じだけのエネルギーをもって働いています。

つまり全ての、一々の存在の核心的な部分に個別に備わりながら、
同時にそれら全てを包み込む存在であるのが大日如来です。

修行をする人、お祈りをする人、
心を清らかにして大日如来の核心に迫れば、
自然とその慈悲心や智慧と和合し、一切と調和します。

あなたの慈悲と智慧のひかりのお祈りはすべての命の幸いを祈るお祈りです。
初めは自分の欲のかたまりの願いでもいいのです。問題ありません。

最後にだけでもいいのです。
本気ですべての命の幸せを思い廻向をしましょう。
そうすれば少しずつ少しずつ
あなたの心に、ひかり輝く清らかな仏さまが
今まさに実現されていくことでしょう。


  日切大師弘元寺 平成廿四年四月廿一日
南無大師遍照金剛ありがとうございます。
     


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